消防制度の改革(その二)(昭和五十一年十一月十五日号)

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消防施設の近代化

 そして新消防法に基づく消防組織や消防設備の施行督促、ならびにその必要性を強調した度重なる県の通達には、むしろ迷惑がっていたふしもみられた。

 こうして各町村における消防組織の改革は、町村財政の貧困から実質的な効果は早急には期待できなかった。それでも越ヶ谷町においては、昭和二十七年一八〇万円で消防自動車一台を購入し、従来の三輪消防自動車を合わせ三台の消防車を保有した。ちなみに二十七年度の越ヶ谷町消防費の総額は、経常費三五万七〇〇〇円を含め二一五万七〇〇〇円であった。これは同年度町費一五七一万九四二円に対し一三・七%にあたる。しかし当年は消防車購入という特別予算であり、例年の消防経常費は町費の二%から三%が普通であった。

 その後昭和二十九年十一月、越ヶ谷町をはじめ二町八か村が合併して越谷町を成立させたが、消防団の組織は役員の構成を変えただけで、各町村の現有勢力をそのまま越谷町に移管して編成された。次いで三十一年十一月、消防団定員数はいちじるしく削減され、消防本部ほか旧村単位による一一分団八一三名に編成された。当時の越谷町世帯数は七八九六戸、人口四万七三二七人、これに対し消防予算(三十年度)は五一一万余円、町費一億二〇三一万円に対する割合は四・三%であった。その設備も消防自動車ポンプが三台、三輪車ポンプが七台、手引きポンプが二六台を数えたが、この時点ではまだ団員のすべては、農業の間、あるいは商工業の問、召集によって動員される非常勤の消防要員によって占められていた。しかも消防法では市町村長から独立した消防長が置かれねばならなかったが、専任の消防吏員を置くまでにいたらなかった越谷町では、消防長はまだ町長の兼任であった。

 やがて越谷町は三十三年十一月に市制を施行して越谷市となったが、翌三十四年十月、常備消防本部が大沢町に設置され、消防署が開設された。ここにはじめて一三名の専任の消防吏員が配置され、消防組織法に基づく近代的な消防組織が誕生したわけである。法令が施行されてから実に一〇年の歳月が流れていた。そして四十二年八月、鉄筋三階建の消防署庁舎が大沢に建設されるとともに、同年十二月消防長は市長の兼任から除かれ、独立した消防体制が整えられた。

 ちなみに当時の消防吏員は三八名、非常勤の消防団員は四五二名であったが、現在消防職員は一四七名を数え、大沢の消防署のほか蒲生と谷中の二か所に消防分署が設けられている。消防車も特殊消防車を含めて八台、それに四十二年度から開始された救急業務用の救急車三台を備え、消防設備の拡充がはかられてきた。しかし越谷市全域にわたる都市化現象のまえに、一寸した油断が大火を招くことは予想されねばならない。このため消防施設のより拡充を必要としながらも、一人ひとりの責任において火に注意することが先決であるのは論を待たない。

市役所で行われた消防訓練の様子