自治体警察の発足とその廃止(その一)

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自治体警察の発足

 日本が占領軍の統治下にあった昭和二十二年九月、連合軍総司令部は、日本の警察制度の大改革を指令した。この改革指令は一定の人口を擁する市や町における地方警察を、中央政府から分離独立させ、市や町の首長が市・町議会の同意を得て任命する公安委員会にその管掌をゆだねようとしたもので、明治以来の警察制度を根底から変えるほどの内容をもつものであった。これがいわゆる「自治警」と称された自治体警察制度である。同時に総司令部は、政府に対し、この指令にもとづいて速やかに法律を制定した後、九〇日以内に自治体警察を発足させるよう指示した。

 こうして二十二年十二月、新しい警察法が制定されたが、新警察法の施行期日をひかえた越ヶ谷・大沢両町は、二十三年三月七日、越ヶ谷・大沢警察組合規約を設け、両町合体の自治体警察「越ヶ谷・大沢警察署」を設置した。このとき定められた警察組合規約や、同組合条例によると、警察署の管理者は町長がこれにあたり、署長(警察長)の懲戒処分などは公安委員会の権限に属されている。しかも警察職員の降任や免職なども公安委員会の承認を経ねばこれを行うことができないなど、人事に関する事柄も地方自治体の民間人に掌握されるという戦前には予想もできなかった画期的な制度となっていた。

 こうして越ヶ谷警察署には、署長ほか巡査部長三名、巡査一一名、通訳・婦人警吏、小使の雇員三名、合計一八名の職員が配置された。この自治体警察の諸経費は、警察吏員一人当り年額一六万三五〇〇円の平衡交付金が国費から支弁されたが、その他はすべて町費の負担であり、二十三年度組合立警察費予算をみると、国からの交付金を除いた総額は、一六九万余円であった。このうち両町の出金割合は人口割と世帯割の二本立で、大沢町が五に対し、越ヶ谷町が七の比率であった。また二十四年度予算でみると、越ヶ谷町の警察費分担金は一七三万八五五三円で、越ヶ谷町予算総額六三四万余円に対し、実に二七・四%に当った。もっとも国からの交付金がこれに含まれているが、それでも一〇〇万円近い負担額であった。

 ちなみに警察署員の月額俸給は、署長が七四〇〇円、巡査部長が平均六五〇〇円、巡査が平均五〇〇〇円であり、このほかインフレ手当などの臨時支出も補部予算に組入れねばならなかった。その他臨時支出としては派出所の設置などがある。二十五年十一月に設けられた越ヶ谷駅前構内の派出所もその一例である。

 この駅前派出所に関しては、この先同年六月、町民の要望をうけた越ヶ谷町長は、東武鉄道に対し、その所要面積は六坪、コンクリート平屋建、この工費は八万七〇〇〇円であるが、このうち三万円の補助を願いたいと派出所設置の協力方を要請していた。これに対し東武鉄道は、越ヶ谷駅前の構内は、戦後すでに無断で店舗を仮設した八軒の露天商に占有されている。この露天商を立退かせれば相談に応じようと回答した。このため越ヶ谷町では所定の手続きをとり、同年十月までに露天商の退去を完了させてその跡へ派出所を建設した。

昭和30年頃の越谷駅前広場