自治体警察の発足とその廃止(その二)

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自治体警察の廃止

 また越ヶ谷・大沢町自治体警察署はその発足当初、出羽・増林などの農村を管掌した国家地方警察越ヶ谷警察署庁舎に同居していたが、独立庁舎建設の必要に迫られ、二十三年十二月、越ヶ谷町東町裏四三三八番地(現越ヶ谷二丁目)に七二坪の敷地を求め、建坪六〇坪の二階建庁舎を二〇九万余円で建設することになった。この建設費の捻出は、町財政の窮迫からその大半を寄付金で賄わねばならず、越ヶ谷繊維団体小売商協同組合、同青果小売組合、同自転車組合、同飲料組合、同鮮魚組合、同医師団などを通じて募金が行われ、およそ一〇九万円の目途がついた。このほか県からも六八万円の補功金が認可されており、これに町費の一部を繰入れて、なんとか建設資金が調達できるはずであった。

 ところが募金の成績は、すでに着工していた新制中学校の建設寄付や、越ヶ谷小学校火災の復興資金寄付などと重なり、納入期限が過ぎても予定額の七〇%にも達しなかった。こうして警察庁舎の建設は、その財源に苦慮を重ねながらも翌二十四年二月二十二日に竣工をみた。だがこの竣工式は、小学校火災の復旧その他で延期され、翌二十五年三月七日、新警察法施行三周年記念祝典を兼ねて、新装なった越ヶ谷中学校で挙行された。この間、町警察の職員は、町の辻で交通安全の紙芝居を熱演したり、少年野球大会を主催したりして町民から親しまれ、民主的な警察としてその評判は悪くなかった。

 やがて二十六年七月になると、政府は警察法の改正を布告した。これには改正警察法第四〇条の三項によって、住民投票の手続きを経れば、自治体警察を廃止し、これを国家地方警察に移すことができるという項目が設けられていた。ここで各市・町では、自治体警察の廃止をめぐりはげしい論戦が展開されたが、越ヶ谷・大沢町も例外ではなかった。このうち廃止賛成派の主張は、町財政の重負担と、警察力の不備を挙げており、大勢は廃止の方向に傾いたが、同年七月二十五日の両町議会では廃止を前提として八月二十日に賛否の住民投票を行うことを決議した。一方廃止反対派は越ヶ谷・大沢町公安委員会を中心に、「警察法の改正について」というパンフレットなどを配付し自治体警察の廃止は、地方自治の発展を期待する住民の基本的権利の放棄であり、戦前の警察国家の復活を許すものだとして廃止反対の宣伝に努めた。

 かくて八月二十日住民投票が施行されたが、その結果は両町合せて総投票数二〇一九票のうち賛成一六一一票、反対三四一票、無効六七票という絶対多数で廃止が決定された。このため町警察がそれまで使用していた一切の建物や財産は、国家地方警察に無償譲渡の措置がとられ、町警察は越ヶ谷地区警察署に統合された。ここに自治体警察はその成立からわずか満三年有余で姿を消した訳である。

 全国の市や町の自治警も、このとき大都市の一部を除いて廃止されたが、わずかに存続していた埼玉県大宮市などの自治体警察なども、その後昭和二十九年六月警察法の改正により国家地方警察に統合された。

越谷警察署庁舎(昭和33年)