越谷の条里遺跡(じょうりいせき)

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 市内の東端を流れる古利根川沿いに、大相模地区から草加の川柳、八潮の八条地区へかけて広々とした永田が広がっている。

 この水田地帯を走る道路や用水路、耕地境を見ると、ほぼ東西の位置に平行しているのに気付く。これが、埼玉郡下では数少ない条里遺跡として有名な越谷の条里で古代の越谷の生活を探るうえに、きわめて貴重な遺跡である。

 条里は、大化前後に畿内(きない)を中心として実施され、その後全国に及んだ地割法で、県内では七世紀末から八世紀にかけて実施されたといわれている。

 その目的は、大化改新により豪族から返還された土地を、男女とも六歳以上に、男は二段、女にはその三分の二を与え、代りに租税を完納させて、朝廷の財源の確立を図った班田収授法の円滑なる実施にあった。

 まず従来の耕地または可耕地を六町四方に区画(里または坊という)し、それをさらに縦横ともに六等分して三六区分(坪)にし、坪をさらに縦または横に短冊型に一〇等分(長地型)するか、五等分して真中を折半(半折型)して、その一区画を一段歩(九・九アール)とし、これを耕地班給(はんきゆう)の単位とした。

 現在、市域に残る条里遺跡は元荒川と古利根川が合流する南百(なんど)以南の古利根川西岸に帯状に広がり明治期の地積図を見ると坪地割はほぼ半折型と推定される。

 この地域は、古利根川が南北に直下して分支流の痕跡がほとんど認められず、また水田面との比高も一~二メートルの高さを見せていて、比較的安定した河道となっていた。この流域を自然堤防べりから後背湿地にかけて広範に水田化し、条里化したと思われる。

 市内には四条、三丁野、四丁野、大里、間久里、八潮の八条などの条里遺名と思われる地名が残っているので、これらもあわせ手がかりとして条里の範囲を確定し、復元しようとする試みも続けられてきたがむずかしい。

 県史では、市内の四条と大宮市の三条との関連を指摘しているが、条里は郡を単位に施行されたふしもあるので疑問である。(市内の代表的考古遺跡である見田方遺跡は、この条里が施行された水田の生産力を背景として営まれたのであろう。)

 県内には大里、児玉、比企、入間、北足立郡下に条里遺跡が見られ、なかでも熊谷市の南方、大里村を中心とする条里遺跡は、九条家裏文書にある大里郡条里に該当(がいとう)するといわれ著名である。

 東武地帯は利根、荒川の乱流地帯で、いたるところに沼沢が分布し水田経営は困難であったため、越谷の条里を除くと、その遺構はほとんど認められない。

(大村進稿敬称略以下同じ)

昭和42年3月の見田方遺跡出土品