平安末期から鎌倉期にかけ、県内各地の開発は、武士を中心とする在地土豪(どごう)層の手で活発に進められ、鎌倉前期にはほぼ飽和(ほうわ)状態に達していた。
これらの開発地の多くは、国司(こくじ)の課税を逃(のが)れるために、有力貴族や大社寺などに寄進され、荘園(そうえん)となっていった。
当時の越谷周辺の荘園は、北部と東部に八条院領だった広大な太田庄と下河辺庄が開け、室町期には新方庄、他に伊勢神領の大河土御厨が置かれていた。
御厨はもと源家相伝の家領だったが、平治の乱で源氏が敗退すると、同所の領主権は平氏の手中に帰し、のちに豊受大神宮を本所とする御厨となり、大神宮の供物や臨時祭等の費用を貢納していった。
やがて頼朝が伊豆に鋒起(ほうき)し、武蔵国への勢力を拡大してくると、寿永元年(一一八二)以降頼朝は在地支配貫徹の手段として、再三旧神領安堵(あんど)を触(ふ)れ、同三年正月、国家安寧と平氏討滅による、天下統一という公私両面の祈濤のために、新たにこの地を外宮領として寄進したのである。
この御厨寄進の背景には以上の事情と頼朝の敬神に加えて、かねて頼朝と親密な関係にあった権禰宣(ごんねぎ)光親からの積極的な寄進への働きかけがあったためである。
かくて光親は御厨を給主として知行し、地頭は従前のままとされた。地頭は大川戸の住人大川戸太郎広行であった。
建久五年(一一九四)六月、大河土御厨の神人(じにん)と久伊豆(ひさいず)宮の神人との間に紛争が起こった。
このことを伝え聞いた頼朝は非常に驚き、大川戸掃部允行光をつかわして善後策を講じさせた。
この事件は、頼朝の崇敬を背景とした伊勢御厨の神人が在地に勢威を張り、久伊豆神人と衝突したものと解される。
この久伊豆宮は、騎西町の玉敷神社、岩槻の久伊豆社、越谷の久伊豆社ともいわれ、いずれかはにわかに断定しがたい。
大河土御厨内八条郷は、後に山内次郎左衛門厨政宣の所領となったが、建暦三年(一二一三)政宣が和田の乱に関係して失脚し、八条郷は葛西式部太夫重清に与えられ、地頭は前の如く渋江五郎光衡に安堵されたのである。
御厨の境域は、寿永三年(一一八四)寄進状に崎西(きさい)、足立両部内とみえ、崎西(埼玉)、足立二郡にわたっていたことがわかるが、古利根河身の変遷も考慮して、現在の北葛飾、南埼玉、北足立三郡にまたがる地域と考えてよかろう。
その本拠は松伏村大川戸とも推定されている。
(大村進稿)
