永享十一年(一四三九)、室町幕府六代将軍足利義教は、かねてから抵抗的であった鎌倉公方足利持氏を打倒した。持氏の遺児春王・安王は、下総の結城(ゆうき)氏にかくまわれたが、義教の命を受けた上杉氏ら関東武士の攻撃で結城城は陥落し、春王・安王は京に送られる途中、美濃の国で殺された。
この結城合戦で奮戦し討死した下総野木の領主野木秀俊の妻は、子の松寿丸をつれて兄の大川戸左衛門太郎のもとへ逃れた。しかし義教の残党狩りは厳しく、大川戸一族へ難が及ぶのを恐れた彼女は一夜松寿丸と共に兄の館(やかた)を抜け出し、湖(沼)に身を投げて死んだ。乳母もあとを追って身投げをし三人の霊は三頭一尾の毒蛇となって湖辺をただよった。
文安四年(一四四七)の春、栄広山清浄院(しようじよういん)の住職賢真上人は山門の東にある湖辺の桜を楽しんでいた。その時、一人の優艶な女性(秀俊の妻の霊)が彼の前に現われ、私はこの湖中に住む大蛇である。夫や我子を死に追いやった義教を許せず、冥中に訴えたところ幸い赤松満祐の怨念に便乗して義教を殺すことができた。しかし王者尊貴の将軍を殺した罪により身は毒蛇となって地獄から逃れることができない。願わくば、我が身のために念仏供養をしてほしいと訴えた。哀れに思った上人は村人を集めて大念仏を催した。六日目の夜中、大地が鳴動して湖は盛り上がり山のようになった。人々はその地を蛇塚、あるいは開山塚と呼んで上人の徳をたたえた。
以上は、市内大松の清浄院に伝わる「六ヶ村栄広山由緒著聞書」(『越谷市史三』参照)の冒頭の部分である。清浄院の本堂脇にある小丘は現在まで著聞書の伝説通り、蛇塚・開山塚と呼ばれ、戦時中はその一部が防空濠として利用されていたが、去る五月、専門家の手により初めて発掘調査がなされた。塚の中央部から風化した人間の歯と骨片、銅銭一枚などが発見された。歯、骨の位置、木棺であったと思われる黒色土層の分布から頭を北向きに埋葬されていたと推定できる。この人物が賢真上人であるかどうかを判定する資料は発見されなかったが、死者が埋葬されていたことは確実となった。
著聞書はその後の部分で清浄院の檀那で向畑城主の新方(にいがた)氏と八条の領主八条氏とが新方の地の支配をめぐってくり返し合戦をしたと述べている。室町時代の越谷市域に関する史料はほとんど残されていないから周辺地域の確実な史料と併せてこれらの記述を参考にしなくてはならない。
(谷沢孝稿)
