岩付衆中村右馬助

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 天正七年(一五七九)小田原北条氏は岩付衆の一人中村右馬助に一通の虎印判状を発した。

 それは、北条氏の知行人関根織部輩下の中村主計助が、右馬助が召し使っている「陣夫一人」は右馬助のものでない、と訴え出たことに対する裁決であった。

 この印判状は現存しないが、江戸幕府が文政年間に作成した武洲文書では、麦塚村吉兵衛所蔵となっている。

 越谷市麦塚の中村家に伝わる「中村家家譜」によると、朝武という人物が右馬介を名乗っている。彼は、天正十七年(一五八九)に没しているから、印判状の岩付衆中村右馬助と同一人物とみることができよう。

 右馬助も主計助も当時の在地武士または、侍的有力農民であり、特に右馬助はもともと岩付太田氏の配下に属していたと思われる。

 北条氏は、武蔵の各地を次々と手に入れるごとに、在地武士を各支域単位に再組織していった。

 彼らは北条氏から所領を与えられる一方、その所領(実際には銭何貫文と表示された貫高)に応じて種々の軍役を負担した。

 右馬助の所領と軍役の内容を示す史料は、残念ながら無い。しかし、前記の「陣夫」とは、有馬助が戦陣に加わる際に、軍需品輸送などの人夫として率(ひき)いることが義務づけられていた農民のことである。

 さて、主計助の訴えに対して、北条氏は両者を召し出して対決させ、「道也(前岩付城主太田氏資)の証文は無いが、道也が討死して以来、かの陣夫は右馬助が使って来たのであるから、今後もその通りにせよ」という裁決を下した。

 主計助敗訴の原因は、右馬助が岩付衆の一員として北条氏に軍役を負っていた知行人であるのに対して、主計助は彼と農民の支配を巡って争うほどの在地有力者ではあっても、「関根織部百姓中村主計助」と印判状に記されているように、北条氏に直接臣従したものではなかった点に求めることができる。

 北条氏は、自己の知行人の利益を擁護することで、支配体制を安定させようとしたのである。

(谷沢孝稿)

明治期の麦塚中村家屋敷門