西角井(にしつのい)文書と越谷市史

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 武州一の宮、氷川神社の祠官(しかん)であった西角井家には、近世初頭以来の多数の文書を残していて、現在は県立文書館に保存されている。

 その内容は神社奉祀(ほうし)に関するもの、社領支配に関するもの等、通常の文書には見られない特異なものを含んでいる。中でも数百点に達する諸国寺社朱印状は、その量と内容から言って全国にも注目を浴びている。

 朱印状とは、狭義には徳川氏が寺社に所領寄進の証として与えたものをさすが、大名の知行安堵(あんど)状と同様に将軍代替り毎に、「継目(つぎめ)の朱印」の交付を受けねばならなかった。継目朱印は、歴代将軍がすべて発したわけではなく、在位の短かかった家宣、家継、慶喜の三代は、朱印改めの手続きを完了していなかったので全部揃って一二通となる。

 これらの朱印は、維新の際従来の朱印改めの如く継目朱印を交付することもなく、朱印地の上地と共に政府のもとに引き上げられたのである。寺社で現在朱印状を保有しているのは、維新時に朱印状差出の達を受けなかったものか、あるいは達を受けても提出しなかったものかのいずれかであろう。

 ところで新政府に提出された朱印状は、暫時大蔵省に保管された後、処分されてしまった。そのうち二七〇〇通余は東京大学付属図書館に引き継がれ、不運にも関東大震災の折灰儘(かいじん)に帰してしまった。現在、朱印状を大量に保有しているのは、徳川氏と特殊な関係を有していた静岡東照宮と、氷川神社の二ヵ所にすぎない。

 氷川神社が朱印状を手に入れた事情は、先年物故された西角井正慶博士の曾祖父にあたる忠正氏が古道具屋で、偶然大宮氷川神社の朱印状を発見し、他社寺の分をも一括して購求したことによるものである。

 これらは廃棄(はいき)処分を受けたためかいずれも二片ないし四片に切断され、朱印はすべて墨で抹消されていた。

 国別にして二八ヵ国、著名な名社古刹の朱印状を多数有し、信長、秀吉文書各一通をはじめ、家康文書に至っては中村孝也氏の労作「徳川家康文書の研究」(全三冊)を大きく補う程である。国別点数では武蔵のみで三分の一以上を占め、埼玉郡は一社九寺分一五通を、越谷市域では瓦曾根照蓮院四通(秀忠外三通)と越ヶ谷天嶽寺一通(家光)が認められた。

 越谷市史にとり最も注目すべきは、この中から天正十四年(干支では十五年)正月大相模不動院にあてた別掲(写真)の太田氏房禁制(折紙断簡)一点が発見されたことである。

 従来これについては大聖寺にある写しにより、ほぼその内容を関知していたが、本文書の発見によってその史料的位置を確定し、越谷の中世史研究に貴重な手懸りを得るに至ったのである。

(大村進稿)

不動院に宛てた太田氏房の禁制