近世初頭の越谷

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 越谷という地名は、古い文書や記録の上でどこまでさかのぼり得るか。中世の史料としては板碑がたいせつだが、板碑に「越谷」と刻した例をまだ聞かない。周知のごとく、慶長年間に「御殿」が出来て、徳川家康、同秀忠がしばしば越谷を訪れたことは「徳川実紀」に明記されている。そのほかにはどうであろうか。

 森末義彰先生が目下詳細に分析検討を加えておられる「日野資勝卿(すけかつきよう)記」元和三年(一六一七)の項に現れることがわかった。日野とは裏松家ともいい、京都の中級公卿で、この年四月に勅命によって日光東照宮(その前年死んだ家康を祀る)に社参した。この月十二日辰刻(たつのこく)に江戸を立って、「センシユニテ馬ヲツギ、コシカヤニテ晝ノ休ヲ仕候(つかまり)」とある。この間に将軍は岩槻経由で進んだ。

 資勝はこの日「カスガ」へ未刻(ひつじ)に着き、「北カワ」に宿り、翌日「サテ」(幸手)「クリ橋」を経て進んだ。日光からの帰途、同月二十二日「タカノ」(高野)に泊り、翌日「カスカヘ」で昼休、「荷物ハ此所留置……唯正さまコシカヤへ御出二付て、拙子も罷立(まかりたち)申候。路次雨降大風ニテナンガン(=難艱)ノ躰(てい)也」とある。翌日「コシカヤノ宿」へ帯一筋与え、そこを立って浅草で昼休、午(うま)刻江戸に着いたという。奥州街道がようやく整備されかけた時代の話で、雨風にはさぞつらい思いをしたことであろう。

 これとほぼ同じ頃もう一つの日記に越谷と推定される地名が出てくる。それは「寒松(かんしょう)日記」といって、寒松龍派という禅僧が記した日記である。この僧は臨済宗であるが、慶長・元和・寛永のころ足立郡芝村(現川口市芝)の長徳寺の住持であった。

 かれは下野の足利学校の管理にも当っており、書状などのかれへの宛名には「学校」と記したものがある。家康、秀忠の信任があつく、年によっては正月に江戸城にゆき将軍家一年の運勢を易(えき)によってうらなった文書を提出した。いまも長徳寺には「寒松稿」なるかれの詩文集を蔵している。日記は原本が長徳寺に伝わったほか、文政年間の写本が内閣文庫にある。

 この「寒松日記」の、かれが八二歳の年の某月二十二日条に「腰谷者乞薬」と記してある。腰谷はおそらく越谷のことであろう。この僧がすぐれた薬の知識を有し、寺で調合をしていたらしく、周辺から薬を頒(わ)けてもらいに来る者が多かった。越谷から約一ニキロの距離を歩いて薬を受けに行く者のあったのも無理からぬことである。

(萩原龍夫稿)