越谷の鷹場

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 鷹狩りは飼い馴らした鷹を山野に放って野鳥を捕える行事で、正式には放鷹(ほうよう)といった。

 本来は鍛錬と娯楽を兼ねたものであったが、戦国時代には政治的なねらいも強くなり、鷹狩りにことよせて領内の民情や、敵地の情勢をさぐろうとする傾向がみられた。

 徳川家康はこの放鷹に熱中し、江戸入府後もしばしば近郊に放鷹に出かけているが、その一つに江戸から川越を経て忍に至り、引返して鴻巣から大宮、岩槻を経て、さらに越ヶ谷から千住に至る行程があった。その間折にふれて農民の直訴を受けて種々の取り調べを行うことが少なくなかった。

 家康のころは放鷹を行う場所はとくに定められていなかったが、寛永五年(一六二八)には江戸近郊の鷹場が指定された。それによると、江戸から大体五里程の距離の村々が将軍の鷹場として指定され、越谷の近辺では、隣接の草加地方までが組入れられていたようである。

 次いで寛永十年には御三家にも鷹場があたえられ、その場所は将軍の鷹場の外側にあたり、江戸から五里から一〇里の間の地点にあったようで、東から水戸・紀伊・尾張の順に配置された。また各家の鷹場の中間に、将軍の鷹場である捉飼場(とりかえば)が設けられていた。

 鷹場をあたえられる資格は、このほか三卿・家門・連枝・大藩主・幕府の重臣などにかぎられ、また借場といって、将軍の鷹場を借りて放鷹した。越谷地方では、西の七左衛門から南の蒲生にかけて紀伊家の鷹場に指定され、さらに八条地区は、一時清水家の借揚場にもなっていた。

 鷹場を実際に管理したのは鳥見役であるが紀伊家の鷹場では、享保十年(一七二五)の御鷹場惣石高帳によると、八名の鳥見役が村数二一〇村、村高五万八一六三石九斗二升四合の地域を支配したが、越谷地方は大門宿の本陣である会田家が管理する二五村、一万三七九石五斗の中に含まれていた。

 鳥見役の職務は、鷹場内の家作の新規取立をはじめ、新増築や水車などの許可、鷹狩りの道筋の屋敷改、屋根替、立木伐採の許可・地頭・村役人などの交代届・飼犬改・田船改、堀沼浚・餌の献上・殺生魚猟の取締・相撲・花火・芝居などの諸興行の取締など、農民生活の全般にわたって幅広い規制の権限を持っていた。

 こうした鳥見役の権限は当時鷹場が支配関係を超えて設定されていたことから領主の支配権を侵害する面もかなりあり、鳥見役の中には、この特権をかさに非常に威圧的な態度をとった者もあり、農民は二重の負担に苦しむことが多かった。

(森田雄一稿)

紀州鷹場鳥見役大門会田家長屋門