渡し舟事故一件と盗賊改心仕置一件

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 現在、川を渡るにはそのほとんどが橋を渡って往来するようになったが、昔は橋がなかったので、舟を利用することが多かった。いわゆる渡し舟である。したがって、水上で舟が転覆し乗船者に損害を与えるという事故も少なくなかったが、その多くは示談内済、つまり民事事件で扱われたのは現在と変りない。しかし溺死者があったり、あるいは舟主やその管理責任者側に重大な過失があったと認められた場合は、刑事一件としてきびしい処断をうけることもあった。

 江戸時代、渡良瀬川通り野州五箇村本町と、その対岸同国借宿村では、かねてから両村の村入用費(村費)で二艘の渡し舟を具え、往来の便宜をはかってきたが、とくに市日や祭礼などで往来の多いときは、二艘の船を運航させて人びとの輸送にあたってきた。

 ところが寛保二年(一七四二)七月、このときは二艘の舟のうち一艘が破船していたため、一艘の舟で市日で混雑する人びとの輸送にあたっていた。しかし先を争う人びとは船頭の制止をきかず我先に乗船、しかも満席の中に馬も乗せたため、川中で馬があばれだし船が傾いて数人の溺死者がでた。

 この一件は死者がでたことから代官所役人の取り調べを受けたが、これに対し二人の船頭は、渡し賃銭を多く稼ぐため大勢の者を乗せた訳ではない。乗船者はかねて船頭手当てを支給している者達なので、無理に乗りこもうとする村びとを断(ことわ)りきれなかった、と主張した。代官所ではこの旨を奉行所に届け船頭に対する仕置き伺いを立てたが、死者を出した過失は重いとして所払い(その土地から出ていくこと)の刑が申し渡された。

 一方渡し舟の管理者である五箇村本町と借宿村の名主、及び両村の組頭二人に対しては、船が破損した際は早速修復せねばならないのをそのままさしおき、しかも渡船利用者の多いのを知りながら渡し場で乗船下船の世話を怠ったのは不届きとして、名主は船頭同様所払い、組頭は過料銭(罰金)の仕置きが申し渡された。現在と比較してその罰はきびしかったようである。

 また延享元年(一七四四)八月、岩槻町旅籠屋(はたごや)喜右衛門元雇人喜兵衛は、勝手知った元主人の家に忍び入り、宿泊していた旅人の金子(きんす)を盗みとった。旅籠屋喜右衛門はその責任を感じ、金子の行方を当時評判の祈禱師(きとうし)江戸大伝馬町塩町平七店伊藤若狭方にその占(うらな)いを依頼した。ところが数日後何者かが盗まれた金子を持参、岩槻町喜右衛門方へこれを届けるよう伝え、祈禱師伊藤若狭方の神前に供えて去っていった。実は盗賊喜兵衛が元主人の難儀を忍びがたく、盗んだ金を若狭を通して返そうとしたのである。

 これに対し若狭はこの金子を岩槻町に届けず、神前に供えられたさい銭と思ったが、大金であるのでとこれを番所に届けた。一件は代官所役人による吟味の結果ことのいきさつが判明、このため代官所では若狭の所業不届きであるとして江戸払いを申し付けるやと奉行所に伺いをたてたところ、怪しい異説をとなえたり、あるいは拵え事を申し立てて金子を横領しようとした訳ではない。ただ正直に事を申し述べなかっただけと認められるので、過料処分にせよ、と申し渡している。

 一方金を盗みとった喜兵衛に対しては、大金を盗みとったこととて死罪を申し付けるべきか伺いをたてたところ、喜兵衛は元主人の難儀を気の毒に思い、本心に立ちかえってその金子を返そうとした。重々不埓(ふらち)ではあるがその改心を認めて死罪には及ばず、入墨のうえ重敲(じゅうたたき)にせよと申し渡している。

 刑罰のきびしかった江戸時代でも、情状は酌量(しやくりよう)される措置(そち)がとられていたのである。

(本間清利稿)

元荒川通り越ヶ谷の渡舟(大正頃)