越谷出身、千住整骨堂の名倉氏

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 通称〝千住の名倉〟で著名な骨つぎ医名倉氏の先祖は、実は武州埼玉郡新方領大泊村(現桜井地区大泊)の出身である。名倉弓雄著『江戸の骨つぎ』によると、名倉氏の祖は坂東八平氏のうち秩父氏の出身、のち大里郡畠山に居を移して畠山氏を称したが、第二三世行家の代小田原北条氏の麾下(きか)に属し、秩父郡吉田町奈倉に本拠を構えて名倉姓を称した。

 永禄十三年(一五七〇)、秩父氏よりは第二八世、名倉姓よりは第六世にあたる重則の代、小田原北条氏の出城名倉城は武田信玄の軍勢に攻められて城主の重則は戦死、その子重治は難をのがれて武州岩槻の浄安寺に落ちのびた。その後重治は武州新方領大泊村に移り、原野を開拓して当所に土着、善兵衛と称して百姓身分になったが、元和二年(一六一六)に没した。名倉八代は伝左衛門と称して万治三年(一六六〇)の没年、名倉九代は善兵衛と称して貞享四年(一六八七)の没年、名倉一〇代は六兵衛と称して正徳元年(一七一一)の没年、これまでの名倉氏は新方領大泊村の住人であった。

 ところで大泊村元禄八年(一六九五)の検地名請帳(検地水帳)には、当時の名倉家当主にあたる六兵衛の名はみあたらない。ただし善兵衛の名がみられるが、これが貞享四年に没している名倉九代の善兵衛であるとすると、当時名倉家の所持田畑は、「耕地名」根田で六反八畝余歩、北で九反三畝余歩、塚田で四反二畝余歩、雉子(きじ)田で一町二反二畝余歩、海道向で三反八畝余歩、堰場(せきば)で二反余歩、広田で五反八畝余歩、田畑合計四町四反三畝余歩、このほか屋敷地一反三畝余歩を所有、大泊村の年寄役を勤めていた上層農民であったことになる。しかし、この善兵衛が当の名倉氏であるという確証はない。

 いずれにせよ名倉氏は名倉一一代弥次兵衛の代に大泊村を退転、江戸の千住に移り住んだ。その時期は弥次兵衛の年代から推して、おそらく享保の初年とみられる。なお、この弥次兵衛の没年は享保十二年(一七二七)である。次いで名倉一二代は弥右衛門と称し宝暦十一年(一七六一)の没年、十三代は勝右衛門を称したが、実は女主人で宝暦九年(一七五九)一二代弥右衛門より早く没した。その跡を養子の弥次兵衛が継いだが、この人が骨つぎ名倉の始祖である。

 弥次兵衛は諱(いみな)を直賢と称し寛延三年(一七五〇)の生まれ、幼少から武術に興味を持ち、柔術を揚心堂の家元神田の木村揚甫について学んだ。また川寸木翁について武備心流という体術のうち骨傷科の接骨術を学んだ。さらに直賢は接骨の薬法を神田佐久間町の幕府の医官多紀安叔の私塾に通ってこれを修得した。

 ちなみに、当時接骨に必要な薬法のうち黒膏といわれた貼り薬は、ニワトコを蒸して臼(うす)でひき、これをすり鉢ですって粉にする。別にオウバク(別名キハダ)の粉をつくってニワトコの粉にまぜ、姫のりを加えて酒で練る。それをのし板に黄半紙を敷いてヘラで伸ばし患部に貼(は)ったもので、この薬法は最近まで骨つぎ療法に用いられていたという。

 こうして骨つぎ医法と修練を積んだ直賢が、接骨医を開業したのは明和七、八年(一七七〇~七一)、直賢二一、二歳の頃であったといわれる。たまたま開業直後の明和九年二月、目黒行人坂から発した火は千住の掃部(かもん)宿にも広がる大火になった。この時直賢は数多くのけが人の治療にあたり、千住の名倉を一躍著名なものにしたという。その子孫もそれぞれ接骨の医業をつぎ、多くの名倉別家が創設されて名倉の名を不動のものにした。

 現在千住名倉の傍系は弓雄と称して荒川区の整形外科病院長として千住を離れているが、千住の名倉本家は今でも残っており長く後世に伝えられるであろう。以上『江戸の骨つぎ』によって名倉家の出身が越谷の大泊であることを知ったが、残念ながら大泊在住当時の名倉家の消息は今後の調査にまたねばならない。

(本間清利稿)

屋根葺替前の大泊観音堂