出稼ぎ人哀話

45~47/236ページ

原本の該当ページを見る

 このため幕府はしばしば帰農令を発して出稼ぎ者の郷里への帰住を強制したが、一たん村を出た出稼ぎ者は都会の風習になじみ、容易に村へ帰ろうとしなかったのも事実である。なかには、その地に定住する例もあったが、過労のため若くして死亡する人も珍しくなかった。

 喜永六年(一八五三)、西方村(現相模町)の小作農喜助の兄浜次郎は、家計不如意のため、家を弟喜助に任せて江戸へ出稼ぎに出た。おそらく農間余業の小商売の資本を稼ぐためであったろう。しかし浜次郎は出稼ぎ先で〝ひさ〟という女と睦(むつ)まじくなり、夫婦になって江戸に世帯をもった。やがて二人の間に卯之助という子供をもうけたが、間もなく浜次郎は過労がもとで死亡した。残された〝ひさ〟は幼児をかかえて働きにもでられず、生活を維持することができなかったので、卯之助を浜次郎の実家西方村の喜助方へ預けることにした。

 喜助方でも決して余裕ある生活ではなかったが、預かった卯之助が病いにかかったとき、その療養手当てに万全をつくした。しかし卯之助の病状は悪化するばかりであり、その看護の労力と療養費の調達のため喜助方の生活はいよいよ困窮した。このため喜助は口べらしのため六歳になった家の娘〝まつ〟を秘(ひそ)かに大沢町の金蔵方へ養女に差しだそうとした。

 ところがこの〝まつ〟の人別送り状(戸籍上の手続書)は偽の書状であったので、これを発見した大沢町の名主は、このことを西方村の名主に連絡してきた。これに驚いた西方村の名主は喜助を呼んで、ことの子細を問い訊したところ、喜助は生活に困り、まつを養女に出したいと思ったが、幼女を他人の家に渡すのは名主が許さないことを知り、秘かに名主の署名捺印を偽造して送り状を作ったことを白状した。

 喜助の親類や五人組の者たちは、この一件を支配役所に訴えると喜助が咎(とが)めをうけ、喜助の家は破滅してしまうので、何とか許してほしいと嘆願し、名主に詫書を入れてようやく許された。それから間もない安政七年(一八六〇)七月、ひさからの預かり子卯之助は看病のかいもなく死亡した。

 江戸で働いていた実母のひさが、この知らせをうけ、驚いて喜助方にかけつけたが、村役人立ち会いのもとで確かに病死であることを確認した。しかしその日暮らしのひさは、卯之助のなきがらを江戸へ引き取ることができなかったので、喜助をはじめ五人組や村役人へとりすがり、卯之助を西方村喜助方の墓所に埋葬することを願って許された。こうして野辺の送りをすませたひさは、再び江戸に戻っていった。

 夫や子供に先立たれ、しかもこれからの生活の目途(めど)も立たないひさは、自からも死にたい思いで一杯であったろう。しかし辛くとも、悲しくとも、命ある限り生き続けようとしたのが人としての常であった。近頃、子供などを道連れにした無理心中がニュースで伝えられているが、福祉行政の等閑(なおざり)にされていた江戸時代でも、出稼ぎ人をはじめ生活に恵まれなかった人びとは、それでも不幸を背負いながら、懸命に生き続けようとしていたのである。

(本間清利稿)

西方村藤塚(現相模町)の墓地