四町野村名主宅打(う)ち毀(こわ)し騒動

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 陽春三月・四月は、低気圧発生場所の位置により烈(はげ)しい南風が吹きこむことがある。とくにこのときはちょっとした失火により大火になった例が多い。

 文化十三年(一八一六)三月七日夜半、四町野村(現宮本町)百姓家の灰置小屋から出火した火は、折からの烈しい南風にあおられて、元荒川の対岸大沢町に飛火し、一九八軒焼失の大火になった。大火の報告をうけた大沢町の支配大貫次右衛門役所は手代山口与作を出張させ、現場の検証にあたらせた。一方四町野村の支配羽倉外記役所からは石黒永右衛門が出張し火元の検証にあたった。このとき検視役人石黒永右衛門は火元に対し現場の跡片付けをして仮小屋を建てることを許すという寛大な処置をとった。

 この寛大な火元への処置を伝え聞いた大沢町役人は、ただちにこの処置の撤回を求めるため四町野村名主伝次郎方へ掛け合いに出向いた。類焼にあった大沢町としては、火元一軒の焼失と異なり、大沢町を潰滅させるような災難を与えた火元には、そのまま縄張りして厳しく検視のうえ、適当な処置が講ぜられると思われていたのである。しかも大沢町は前年の東照宮二〇〇回忌法会大通行に備え、幕府の勧告に基づき旅籠屋一同苦しい算段をして家屋を修復したばかりのときであった。

 こうして火元に対する取り扱いに抗議するため大沢町役人が四町野村役人に掛け合い中、激昻した大沢町の住民四~五〇〇人が、手に手に槍、長脇差、鋤、鍬、熊手、鳶などの得物を携えて四町野村へ押しよせてきた。驚いた大沢町役人はこれを阻止しようと努めたが、いきりたった群集はこれをはねのけて名主宅へ乱入した。家の中はたちまち戸、障子、建具はもちろん、簞笥、長持、皿鉢、膳碗に至るまで微塵に打ち砕かれ、柱や天井にも刃疵がつけられた。

 このほか長持の中の金子四〇両が紛失し、衣類三〇〇点が肥溜に投げ込まれた。この騒ぎで身の危険を感じた四町野村の住民は、いずれも村外に脱出したので、一時は村中無人の状態になったという。

 この不法な乱暴狼藉に対し、四町野村役人は直ちに羽倉外記役所に一件の始末を訴え出た。この訴状には打ちこわしに参加した主な人びとが記されていたが、このなかには茗荷屋政右衛門、米屋長兵衛、虎屋次兵衛、若松屋次郎右衛門、饅頭屋平右衛門、叶屋新兵衛、丹波屋由蔵、竹屋文五郎、そば屋又兵衛、伊勢屋安五郎、島根元之丞、大黒屋嘉右衛門、小松屋百次郎、橘屋権右衛門、柏屋銀次郎その他大沢町の重立百姓が名を連ねていた。

 これに対し羽倉外記役所では、さきの検使役人石黒永右衛門を田中寿三郎に代え、大貫次右衛門手代山口与作を立ち会いとして火元の再検視を実施した。この結果火元が残り火の取り扱いに不都合があったことが確認され、奉行所裁許(判決)により改めて当人は手鎖りのうえ村預け同人五人組は押し込め、村役人は急度御叱りの処分が申し渡された。

 一方四町野村名主宅打ちこわしの一件は、越ヶ谷町、上間久里、大房、登戸の各村名主が扱人となり、大沢町が四町野村名主方に対し、打ちこわしの弁償金として金一〇〇両を支払うことで示談内済となった。

 その後大沢町は幕府に金二二〇〇両の類焼再建拝借を願ったが、幕府は一七ヵ年据置、三五ヵ年賦償還による総額金八四八両の貸し付けを認めた。しかし拝借金の下げ渡しが遅れたため、その復興はいちぢるしく遅延し、なかには縁者を頼り、大沢町を退転した者も少なくなかった。いずれにせよこの四町野村名主宅打ちこわし一件は、治安のうえからも大きな騒動の一つであったが、このときの情状が認められ、この件に関しては大沢町から一人の処罰者も出さなかった珍しい例である。

(本問清利稿)