訴えられた越ヶ谷雛商

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 昨年幻の越ヶ谷段雛が発見され、その型態などが確認できたが、江戸時代越ヶ谷の雛人形が関東のなかで、どれ程の位置を占めていたか一切不明であった。ところがこのたび鴻巣の古文書からその一端が知れる関連史料を確かめることができた(『鴻巣史話』)。

 これは江戸雛問屋壱番組年行事、浅草瓦町文七が、武州大里郡熊谷宿百姓二名、入間郡川越宿の百姓四名、足立郡大宮宿の百姓一名、同郡上谷新田(現鴻巣市〉の百姓一名、埼玉郡北河原村百姓三名、同郡越ヶ谷宿百姓七名の雛商仲間を相手取り、文久二年(一八六二)五月、江戸南町奉行松平石見守役所に「渡世差障」の理由で訴えをおこした訴訟文書である。

 この訴訟書によると、幕府は元禄年間(一六八八~一七〇三)次いで享保二十年(一七三五)、天明九年(一七八九)と、しばしば奢侈(しやし)禁止令に基づき豪華な雛人形の取り締まりを通達してきた。このため、江戸の雛商は幕府の趣旨にそうよう組合を組織し、古雛の繕(つくろ)い人や雛の細工師までもこの組合に加入させて統制にあたってきた。ところが近来相手の者共は江戸から職人共を召し抱え、勝手ままに雛を生産し、遠国はもちろん近郷在々に至るまで手広く卸売をするようになった。このためその統制が乱れるとともに、江戸の雛問屋は渡世にも差し支えるようになった。

 ことに越ヶ谷宿の者共は、前々より江戸内雛問屋の下職として江戸の組合に付属していたが、議定(約束ごと)に違反して組合の統制に服さず、生産した雛を江戸に納めないで勝手に卸売をするようになった。しばしば掛け合ってみたが一切応じようとしないので訴えをおこした、というものであった。しかもこの町奉行所での訴答の論争中越ヶ谷宿雛商の一人藤兵衛は、文久三年二月、雛荷物一七個を下総国千葉郡千葉町丸屋吉兵衛方に送るため、下柳原町(現千住)の艀(はしけ)問屋越ヶ谷浪兵衛方に荷を託したが、訴訟人文七はこの荷物を差し押さえ、一件を重ねて奉行所に訴え出ていた。

 雛商仲間のこの抗争は、幕府評定所にまで持ちこまれ、長期間争われたが結局元治元年(一八六四)十月、評定所の裁定で示談内済の運びになった。この内済条文のうち、越ヶ谷宿の条項を拾うと、(1)千葉町へ出荷しようとした藤兵衛の雛荷は、江戸問屋と話し合いのうえ越ヶ谷に積み戻す。(2)訴訟方では越ヶ谷宿の雛商は、前々から江戸問屋の附属として証文を取り替わしていたと主張するが、これらの証拠書類は安政二年(一八五五)の江戸大火により焼失したという以上、これをとりあげることはできない。(3)今後江戸問屋は、地方における農間稼ぎの雛商を、渡世差し障りなどの理由で訴えたりせずお互い相談のうえ商いをする、というものであり、江戸問屋は事実上敗訴に終わったわけである。

 こうして同年十一月、地方の雛人形商は江戸の問屋から訴えられた雛商を中心に、(1)御制禁の派手な雛は売買しない。(2)江戸問屋の雛職人を召し抱えない。(3)値下げなどの内証売はしない。(4)毎年正月上旬定例の会合を開く、などの議定書を取り替(か)わした。この議定書に署名した越ヶ谷宿の雛商は、吉右衛門・卯右衛門・千之助・佐右衛門・源左衛門・源次郎・銀三・清吉・八兵衛・重蔵・与市・定次郎・文吉・それに四丁野村文太郎の一四名を数えた。

 ちなみに、鴻巣の伊藤憩右氏によると江戸に雛人形組合が成立し、十間店(現日本橋)が出現したのが元文五年(一七四〇)、鴻巣や越ヶ谷で着付雛の製造がはじめられたのは安永九年(一七八〇)、また三月節句前のおよそ一ヵ月開かれた雛市が各地に波及したのが寛政年間といわれ、幕末期には江戸の十間店・鴻巣・越ヶ谷が関東の三大雛市と称されたという。これらにより江戸期の越ヶ谷雛は予想外に盛んであったことが知られるが、その実態は今後の史料発掘に待たねばならない。

(本間清利稿)

山崎昭二氏復元の越ヶ谷練雛(ねりびな)