寺を訪れると、縁者を失い、弔(とむら)う人もない、無縁仏と呼ばれる墓石の群がある。
大沢町光明院(こうみよういん)(新義真言宗・末田村金剛院末・本尊十一面観音、境内の地蔵尊は塩地蔵と呼ばれ、参詣人も多い)の無縁仏の群は門を入った右側にあり、無縁仏と刻まれた墓石を中心にして、背の低い墓石を前列に、順に背の高い墓石が後列に安置されている。
この無縁仏の中に、靴底形をした自然石の墓石がある。石には、「春暉庵一樹之墓」と刻まれ、裏面には、亨和二戌(一八〇二)二月、春暉庵門人春々庵一無とある。
春暉庵一樹とは幸手附近に居住し、近在の者に遠州流の生花を教授する、さし花の師匠であった。越谷市域の生花に遠州流の多いのは一樹の影響ともいわれる。
一樹の門人で墓の建立者である春々庵一無こと髪結の永蔵は、大沢町上組で髪結渡世をする髪結職人であったが、一樹の弟子となって生花を学んだ。江戸時代も末期に近づくと、職人や商人も芸道を嗜(たしな)むようになったが髪結永蔵もその一人であった。
生花の遠州流は江戸時代初期に小堀遠州を元祖として始まり、公家、諸大名等に広まった。
江戸の一般庶民に嗜まれるようになったのは明和頃(一七六四~七二)といわれるから、越ヶ谷、大沢にひろまったのは江戸と時期的にほとんどかわらなかったといえよう。
春暉庵の墓所がいつ無縁仏としてかたされたか私には不明であるが、一樹の墓所については、「大沢町古馬筥(こまばこ)」なる書に、「春暉庵之墓光明院、江沢氏墓所の東の方後にあり」とある。
このことから、江沢家墓所を目途にすれば容易に知れるものと尋ねたが、一樹の墓同様、江沢家の墓所はすでになく、「無縁の中であろう」とのこと。
江沢氏といえば大沢町成立に当たっての有力者で、検地の折、縄打の初をなした家で、内(うち)(打)出(で)屋敷と呼ばれていた。
代々町役人の名主や宿場役人の問屋役も勤めた家柄で、越谷町会田出羽の打出屋敷・草加宿大川図書の打出屋敷・千住宿下河藤左衛門の打出屋敷と並ぶ旧家であったはずである。
その後、明治初期に大沢を去り、家屋敷を失い縁者も墓所を訪れることもないまま無縁と化したものか。『大沢猫の爪』には、
「光明院ハ……(中略)古来ヨリ右之所に在住ゆへ当町住古の旦那多有之候所、没落の者有之境内無縁墓有之候」
とある。旧家も有力者も時と共に移り変っていくのは世の常であろう。
(佐藤久夫稿)
