文化年間(一八〇四~一八一七)に、江戸でたいへん売れた化粧水があった。名付けて〝江戸の水〟、その効能書に「おしろいのよくのる薬、ひび・しもやけ、御顔のでき物一切によし、箱入代四十八文」とある。発売元は江戸本町二丁目の式亭三馬である。
ガラスびんにつめた〝江戸の水〟は化粧箱に入れられ、銭四八文で販売された。
実はこの箱のほとんどを、三馬は越谷在から購入していた。
式亭三馬(一七七六~一八二二)といえば、滑稽本「浮世風呂」「浮世床」などを書いて、当時非常に人気のあった流行作家である。しかし今の流行作家と違い、当時は原稿料だけでは食べていけなかったためか、作家稼業のほかに薬店を開業、仙方延寿丹・金勢丸・婦人の薬・小児丸・竜樹散などの薬類を販売していた。
なかでも箱入りの〝江戸の水〟は、おしろいがよくのるというので江戸の女性たちに大評判で、かれはこれによって、晩年に相当の財産をきずいたという。
三馬の文化八年三月の日記に、「江戸の水箱入りの箱は、百文に付十四がへ、越谷大泊村箱屋長八、江戸浅草福井町箱屋利助、右二人にたのみて数三千余も製りたりしに、新よしはら山口巴屋清次手代金蔵のしゅうと、越谷在の箱屋なりとてたのみ来る故、対談決着、百文に付数十六がへ、一つに付価六文なり」とある。
すなわち、はじめは大泊村の箱屋長八らと銭一〇〇文につき箱一四個で取り引きしていたが、同じ越谷在の箱屋が一〇〇文につき一六個という安値で製造するといってきたので、そちらに頼むことにしたというのである。
この日記の記事から、三馬のぬけ目ない商才がうかがえるとともに、当時、越谷周辺で桐などの小箱生産が活発に行われていたことが知れる。
しかもそれが、江戸向けの商品として生産され、文化年間にはすでに競争販売の段階にあるほど、この地域で多量に生産されていた点に注目する必要があろう。
明治八年にまとめられた「武蔵国郡村誌」の物産の項に、小箱の年間生産高が、北川崎村で五万個、向畑村で七万二〇〇〇余個と記されている。
このほか張子のダルマが下間久里村で四万個、雛人形造花が越ヶ谷町で二万一〇〇〇余個とあり、さらにむしろやわらじの生産は、ほぼ越谷全域にわたっている。
こうした当地域の手工業生産が江戸時代にどのように行われ、いかなる流通ルートで販売されたのか、その実態となると未だ不明な点が多く、今後の研究にまつところ大である。
(竹内誠稿)
