越谷の桃林と藤(昭和五十四年四月一日号)

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 今年は暖冬で季節の移り変りの感じが薄いようだが、新暦四月は旧暦では弥生(やよい)三月と称し、陽春たけなわの花の季節である。梅はすでに遅いが、桃、桜、藤などの花が次々と咲き競い花見にはことかかない。現在大沢の元荒川にかかる東武鉄道鉄橋下の元荒川堤から、大房(現北越谷)を経て大林境に至るまでの堤防にかけては、昭和三十一年越谷町の有志によって植樹された桜が見事に育ち、桜の名所になりつつある。

 もっともこの辺りは、江戸時代桃の名所としてひろく知られた所である。『徳川実紀』の編さん者で著名な成島司直(文久三年八五歳没)は、江戸近郊花見の名所として、杉田(現横浜市)の梅、小金井(現小金井市)の桜とともに越谷の桃を選び、それぞれの地を訪れ『看花三記』と題した紀行文を著わしている。司直が越谷を訪れたのは文化十一年(一八一四)二月の末で、現在の大沢橋の手前を左に折れ(県道浦和・越谷線)、しばらく行って〝裕之〟(神明下会田七左衛門家の一門金沢祐之カ)という文化人の宅で一休みし、祐之の馳走による小舟に乗って対岸に渡っているが、この辺りは「桃の花ならぬはなし、枝をまじえ陰をならべ、岡も野もただ紅の雲の中を往来する如し」とその見事さに感嘆している。

 また、江戸小日向の僧侶津田敬順は、文化元年(一八〇四)と同十四年に越谷を訪れ、このときの紀行を『十方庵遊歴雑記』という著書の中に収めているが、大林の桃林に関しては、この桃林は越ヶ谷宿の西方六町(約六五〇メートル)ほど行き、日光街道から左へ一町ほど入った所にある。川筋に沿って南北一五町(約一七〇〇メートル)幅三、四町にわたっては見渡す限りの桃林で、桃の下には麦や野菜が仕付けられている。花の季節にはどれほど見事であろう、といっている。現在でも松林に囲まれた宮内庁埼玉鴨場の北側一帯は、この桃林の名残りを留めたような桃園になっており、北越谷駅から大野島に通じるバスの停留場も桃山と名付けられている。

 こうして江戸時代文人墨客の注目を集めた越谷の桃は、二代目広重により「武蔵越がや在」との銘で錦絵にも画かれたが、明治期に入っても盛んであったとみられ、明治三年三月、文人成島柳北が古河藩主の招待をうけて日光街道越谷を通ったとき、「この駅尽くる処桃林あり幾万株あるを知らず、都人称するところ越谷桃源とはこれなり」(『常総遊記』)と述べている。

 さらに明治四十五年三月二十日の『埼玉新報』には、「越ヶ谷と藤塚(現春日部市)なる埼玉園芸会社の桃林がソロソロ笑い初むるにより、本月二十四日より来月十四日迄、越ヶ谷及武里の二駅共通の割引切符を発売し、遊覧者の便を図る由なれば、杖を曳くも一興なるべし」と報じており、当時から越谷の桃は名所の一つになっていた。

 また藤は、現在春日部市牛島の藤とならんで越ヶ谷久伊豆神社境内の藤が著名であり、例年五月初旬の花の季節には、盛大な藤まつりが挙行され観光客で賑わいをみせる。ところでこの藤は、天保八年(一八三七)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国流山から樹齢五〇年の藤を舟で運び当社の境内に移植したものといわれる。当時国蔵は棕櫚箒(しゆろほうき)を製造してこれを売っていた職人だったが、寺社の祭礼や縁日には境内の出店ですしを売ったので、通称〝すし大〟とも呼ばれた。国蔵は藤の花盛りにも久伊豆神社境内に出店を開いたが、人びとにすしを売りながら、この藤は地味のせいか育ちが早いなどと語っていたという(萩原龍夫氏調べ)。

 なお明治四十四年四月の『埼玉新報』によると、「郷社久伊豆神社の藤花は、此数年来人口に膾炙(かいしゃ)しそめしもの」とあるので、この藤は東武鉄道開通後、鉄道の観光案内によって宣伝され、この頃より広く知られるようになったようである。

(本間清利稿)

現在の久伊豆神社の藤