桃の花見

82~83/236ページ

原本の該当ページを見る

 江戸時代越谷の桃は世に広く知られていたが、この花見の紀行文をご紹介しよう。有名な『徳川実紀』を編さんした成島司直が記した「看花三記」という文が『甲子夜話』(松浦静山の随筆集)に載っている。花見三ヵ所というのは、杉田の梅、越谷の桃、小金井の桜で、司直はこれを文化九年から十二年にかけて観覧し、その紀行文を記したのである。

 越谷へは文化十一年(一八一四)二月二十六日に出かけた。朝早く三人の友人と江戸の邸を出、田中(台東区浅草田中町だろう)で一人待合わせ、小塚原・千住・島根・竹の塚・草加を経て蒲生に至る。蒲生で十三仏とかいた碑があったので堂をのぞくと荒れはてた堂内に数多くの仏像がならんでいたなどとも記している。「ややありて越谷のすくにつきぬ、すくより大沢といふ里にいずる間に橋あり、ここの流れを故荒川といへり」とあるが、すくは宿(しゅく〉であり、故荒川はいうまでもなく元荒川である。橋の手前を左に入って堤の上を行くと、向こう側の岡に紅(くれない)の雲がたなびいて見える。これが有名な越谷の桃林である。ここに住む文化人の「祐之」の家で響応にあずかり、貴重な「墨田川問答」自筆本、専順の絵に宗砌の賛のついた一軸などを見せられた。

 火桶とひさご(酒を入れる)とを携え、小舟にのって芦の間をわけて行く、このあたり「桃の花ならぬはなし、枝をまじえ、陰をならべ岡も野もただ紅の雲の中を往来する如し、このあたりより、築比地長良山などまでの間はすべて桃の木林絶え間なし、ここは猶花の水口なりといふ」と、桃の花の満開の状況をくわしく述べている。