先に、徳川実紀の編者成島司直が越谷の桃を江戸の三名花(あと二つは小金井の桜と杉田の梅)にかぞえて、悠々と賞美したそのおもむきを書いた。
ここでは、ちょうど同じ文化文政という時期に、桃林を賞美した人のことをご紹介したい。
それは、江戸の小日向(現文京区)に住む釈大浄という一向宗(真宗)の僧侶で、この人は江戸の近郊を歩き廻って、たくさんの文をかき、さいごのフィナーレはわが越谷の「桃とうなぎと螢」に決定した人なのである。
かれによると、大林の桃園は、越ヶ谷宿の西北六町ほどで(ちょっと足りない)、街道から左に一町入ったところにある。
川筋に沿って南北約一五町、幅また三~四町(一町は九〇〇メートル)、見わたすかぎり桃林でないものはない。木の下には麦やそ菜をしつけてある。桃と、川筋の冬枯れのコントラストはさぞやと思われる。ここから川に沿って西へゆくと三ノ宮という村がある。
三つに区切れた橋がかかっている。その橋のさまは、こちら岸と向こう岸は土橋で、両端とも四~五間ずつ川岸から張り出させ、真中の三~四間は、厚い板を数枚ならべている。洪水になるとまん中の板をとりのけて、水勢を流すためである。
橋のたもとに茶みせがあって、往来のものはここで休む。この川は岩槻の方から流れてきて、越ヶ谷宿の中を流れ、流れゆく末は利根川だとのことである。
川筋の曲りくねった景色はいうにいわれぬ風情である。
ここからまくりの里へ二五町、野島の地蔵尊の裏門まで四町ばかりとのことである。
以上、かれ大浄くんは、桃の「林」は見たが、「花」の方は見なかったわけだ。しかしかれが桃花をじゅうぶん鑑賞していることはかれの「遊歴雑記」でよくわかる。
かれはえんえん、越谷の桃とうなぎと螢を語るのである。
