四町野村(現宮本町)真言宗迎摂院は、僧賢栄法印による天文四年(一五三五)の中興開山を伝える。天正十九年(一五九一)十一月徳川家康により寺領朱印地高五石を与えられ、同時に越ヶ谷久伊豆社及び中町浅間社の別当寺に任ぜられた古刹であるが、江戸時代を通じ末田村(現岩槻市)金剛院の末寺に置かれた。
寺院の本末関係は、徳川幕府の宗教政策により厳しい統制下におかれ、本寺は末寺に対し僧侶の任免、僧階の付与、色衣の着用その他すべての支配権をゆだねられていたし、その上本寺の行事に対する奉仕や本寺の維持費なども末寺に負担させることもできた。もっとも本山は総本山を頂点に二重三重の系列に組込まれており、それだけに幕府は全国の寺院をあますところなくその統制下に置くことができたのである。たとえば四町野迎摂院は神明下村政重院など五ヵ寺の本寺であったが、迎摂院はまた前記の通り末田村金剛院の末寺、また金剛院は京都仁和寺の末寺でもあった。
さて迎摂院は安政五年(一八五八)二月当時の住僧秀玄法師が檀林格(仏教の学問所)薄黄色僧衣着用の格式を許されるよう本寺金剛院へ願いでた。その理由として、迎摂院は本山修行二〇ヵ年以上(二﨟)の僧でなければ住職になれない朱印寺であり、しかも越ヶ谷郷七ヵ村の惣鎮守久伊豆明神社の別当寺である。ことに三年に一度の久伊豆社大祭には、とくに道中奉行所より日光街道の廻り道が許され、道中通行止めのもとに祭礼が執行される通例である。したがってこの大祭には迎摂院末寺その他の寺院から多くの立会僧が参加するが、その着用僧衣はいずれも久伊豆社神官である迎摂院の僧衣と同じであり、別当寺としての格式上ことに外見が悪く久伊豆社の尊厳にもかかわる。
もっとも迎摂院は安永三年(一七七四)黒・黄二色僧衣の寺格を許されて他の立会寺院とは差があったが、近頃他の寺院も追々寺格を昇進させて安永三年以前と変わらなくなった。このため迎摂院檀家をはじめ久伊豆社氏子一同は悲嘆のあまり是非檀林格薄黄色三色僧衣着用の寺格を許可してもらいたいと願い出た、というものであった。
この願書は本寺金剛院と真言宗関東触頭真福寺添簡のもとに、真言宗月番弥勒(みろく)寺宛に出されたが、これに対し弥勒寺役者は、現住秀玄は惣本山長谷寺二三ヵ年の修業僧で、しかも朱印寺の住職である。したがって薄黄色僧衣着用については故障はない、門末相談の上取り締まり四ヵ寺へ正式に願い出るようとの指示を与えた。
迎摂院はこれにもとづき同年五月門末一同評議を重ね本寺金剛院へ願い出たが、金剛院は、寺格昇進にあたってのとりきめとして、
一、寺格昇進料金七両二分のほか報謝金として金五〇両を納める事
一、薄黄色僧衣着用が許されても本寺出席の際はその着用を遠慮する事
一、本寺への報謝は寺格に応じて納める事
一、本寺への出金や勧化には、従来門末仲間金で平等に割合出金したが、以後は十分の二を負担する事
など、迎摂院にとってはこれを容認することができない事項が含まれていた。
このため金剛院と迎摂院は対立し、出入り訴訟に発展する事態に直面したが、このとき袋山村名主細沼吉左衛門が扱いに立入り、同年六月改めて江戸四ヵ寺月番中へ伺いを立てるため参府(江戸行)して運動した結果、同年九月新檀林格許可の免状と薄黄色寺附の免状が総本山より下付された。このときの迎摂院御礼目録によると、新檀林格願い、同許可御礼、薄黄色着用願、同許可御礼など、そのつど円福寺・根生院・弥勒寺・真福寺などへ多額の報謝金を納入、このほか本寺金剛院へ金二〇両納入して一件はようやく落着した。
こうして迎摂院が檀林格薄黄色着用の寺格を得るため費やした経費は、締めて一五四両二分一朱余にのぼった。もっともこれらの資金は当院の大檀那四町野村名主会田角太郎が助成したが、これに対し当院では会田氏夫妻に対し、院号は一代、居士号は永代これを贈ると約している。身分格式が重んぜられた江戸時代にあって、新たな身分格式を許されるということは大変なことであったが、幕末期には金銭によってその身分格式が得られるという変則事態が普通になっていたのである。
(本間清利稿)
