安政年間は、同二年(一八五五)の関東大震災をはじめ冷害などの天災が続き、全国的な不作が続いた年代であった。ことに安政六年七月には利根川洪水で関東地域は大水害をうけ、米穀をはじめ諸物価は高騰、小商人や日雇い稼ぎなどで生計を立てている人びとは高値の食糧を買うことができず、その日の生活にも差支える状態が続いた。このため各地の困窮者はそれぞれ地元の富裕な商家や農家を打ちこわすなどの暴挙に出た。
越ヶ谷宿大沢町の地借・店借を中心とした困窮者も、同年十月二十四日夜半徒党を組んで大沢町浅間山に集合、火を焚いて気勢をあげ、それぞれ手分けして米屋には米を、酒屋には酒を出させるなどの乱暴を働いた。これに驚いた大沢町の百姓は自身番に集まり、その対策を協議したが、このとき徒党の代表が自身番を訪れ、米や酒を浅間山に持参するよう強要したりした。
この困窮者浅間山徒党集合の報告をうけた名主江沢太郎兵衛は、不届きな者どもと腹を立てたが、一先ず仲介者を立て、掛合のうえ徒党を浅間山から解散させるように命じた。そこで百姓一同は残らず照光院に集まり、相談した結果、数人の世話人を選んでこれを浅間山に差し向けた。これに対し徒党の代表は、穀物高値でその日も暮らしかねているので来年三月まで米を安売りするとともに、金子一両宛借用したいと申し入れた。この要求に対し仲介者は、とくに本年は水害のため百姓とても一同難渋している、そこで三〇日の間銭一〇〇文につき米一合安の積りで承知願いたいと掛合った。ところが徒党一同は、もっての外の回答である、何分大勢のことなので、なかには重立百姓の家を打ちこわしたり、或は名主の家に押し込む者がいないとも限らないが、これらに対しては責任はもてないと詰めよった。
そこで仲介者は、困窮者側では六〇日の間米二合安、その外金子一両借用の条件であることを照光院の百姓方に報告した。しかし百姓方は六〇日の間白米一合の安売、金一両の代り地代・店賃二ヵ月分を容赦するとの回答を示した。このため仲介者は幾度か浅間山と照光院の間を往復して交渉を続けたが、結局六〇日の間米二合の安売り、手当金として金一分を与えることで示談になった。
このうち浅間山に集合した困窮者に対する元手金の贈与は二二〇軒であったので、しめて金五十五両、これは十一月一日照光院で切手札と引替えに手渡された。また安売米は銭一〇〇文につき米五合五勺相場のところ、八合売りの切手札がそれぞれに手渡された。こうして浅間山徒党集合一件収拾のための諸費用は、鷺後や高畑の困窮者も加わり、金二〇〇両近くに達したという。この費用は大沢町百姓と、越石百姓(他村の者が大沢町の田畑を所持する)の高割(田畑の所有高による割当)で負担することになったが、とりあえず鎮守香取神社掛金からその資金を調達すべく、日掛金の預け先越ヶ谷町奈良屋新八方から借り出してこれに充当した。
かくてこの一件は一応落着したが、これは根本的な解決方法ではなく、その後も困窮者はことあるごとに徒党をくみ、しばしば暴動の気配をみせた。幕府はそのつど徒党の取り締まりを厳しくしたが、困窮者にとってはこうした方法が当時生きる権利を主張する唯一の途でしかなかった。なお越ヶ谷町では当時重立(おもだち)百姓の出金で毎年のように困窮者への施金を実施していたが、すでに村落共同体としての自治体制は大きくくずれ、土地を所有しない無産者の増大とともに、貧富による利害の対立は深刻な局面を迎えていたのである。
(本間清利稿)
