近頃、凶悪な犯罪事件がニュースを賑わせているようだが、犯人が、その逮捕に向かった警察官などに手向かいし、他人の家の器物を損傷したり、あいるは犯人が疵を負って医療手当てを受けた時、その物件の弁償や疵の療用手当の費用は誰が負担するのであろうか。
現行では犯人とその親族がこれらの費用を負担する義務があるようであるが、もし犯人やその親族がこれを支払う能力のない場合、犯人の治療費は都道府県の地方自治体が負担し、物件の損傷については、犯人に入られた家の災難として処理されているようである。
では、江戸時代にこのようなケースが起きた時はどうであったろう。
慶応三年(一八六七)九月、越ヶ谷本町百姓市兵衛方地借人、農間茶漬渡世兼日雇稼ぎ口入れ業花田屋富蔵方へ会津出生伝吉と名乗る者が訪れ、江戸浅草辺で永年奉公稼ぎをして暮らしてきたが、大酒を好むゆえ所々に借財が嵩(かさ)み、主人や知人にもこのうえ無心(借金)を申し入れることができず、江戸を逃げてきた。今一文の持ち合わせもなく難儀しているので、どこへなりとも日雇稼ぎに世話をしてもらいたい、と頼みこんだ。
この時、富蔵方では当の富蔵が留守で娘がこれに応対した。伝吉の様子に不審な点もなく、そのうえかねて越ヶ谷本町伝左衛門方地借人米つき渡世松本屋多吉方から住込み日雇人の口入れを頼まれていたこともあり、身元確認の手続きもせず、すぐさま多吉方へ伝吉を紹介した。こうして伝吉は松本屋多吉方で働くことになった。
ところが伝吉は、実は定吉という大悪党(どのような悪党かは不明)で、かねてその行方が探索(たんさく)されていたが、越ヶ谷に潜伏したことがつきとめられ、江戸南町奉行井上信濃守定廻り三井伴次郎・岡田源三郎、並びに北町奉行駒井相模守定廻り加藤保次郎・中田海助その他多数の手先が定吉逮捕のため越ヶ谷宿に出向した。こうして同月二十日昼四ツ頃(午前十時)、多吉方で働いていた定吉は奉行所手先の者に発見された。定吉は刀をもってこれに手向かい、捕手のひるんだすきに多吉方から隣家の三鷹屋嘉兵衛方の庭に逃げこんだ。
捕方は三鷹屋家宅の四方を固め、囲いの輪をちぢめて定吉に迫ったが、このときのがれがたいと知った定吉は、携えていた刀を自からの喉と腹に突き立て自殺をはかった。そこで捕方は越ヶ谷宿役人立会いのうえ、越ヶ谷宿医師右門と宗謙を呼びよせ、療用手当をほどこさせたが、定吉の疵はもってのほかの深傷(ふかで)で薬用手当の甲斐なく間もなく絶命した。
この一件では、正式な手続きをとらずに定吉を斡旋(あつせん)した富蔵、捕方役人の応対に無礼を働いた多吉、その他越ヶ谷本町組役人は、それぞれ南北町奉行所に始末書を提出して御慈悲の御沙汰を願い、奉行所に対する特殊な運動が効を奏したか、別にとがめは受けなかったようである。
しかし捕方役人の接待、奉行所への諸手続、定吉の療用手当、その他諸費用は、定吉を雇入れていた松本屋多吉が金二四両一分二朱と三二文、定吉を口入れした花田屋富蔵が金十八両、それに犯人に逃げこまれた三鷹屋嘉兵衛が金十八両を負担した。これに対し三鷹屋は、全く災難のほかない、以来は神仏を信心いたし、このような災いが二度とないよう心がけねばならない、とぼやいたという。現在でもこのような不合理がまったくないとはいえないようである。
(本間清利稿)
