大久保大和と変名した新選組の隊長近藤勇が、下総国葛飾郡流山村で官軍に逮捕されたのは慶応四年(明治元年)四月の三日である。徳川慶喜追討の東海道軍先鋒隊が品川宿に到着したのが三月十二日、東山道軍先鋒隊が大宮宿を通過したのが同月十八日、そして江戸城明け渡しが四月十一日、したがって近藤勇の逮捕は官軍方が江戸に進攻した直後のことであった。
当時、流山に陣を布いていた近藤は同志を集め、再挙の機会をねらって奔走(ほんそう)していたが、官軍方は三月の下旬、早くも吉川町を中心に中川・古利根川筋に出兵して警戒にあたっていた。
常州真壁郡坂井村百姓勝吾が、増林村地内で官軍方の手先に逮捕されたのが、この官軍出兵警備中の三月二十四日のことである。勝吾捕縛の容疑は、〝誠忠〟と書入れた鉢巻を所持し、菰(こも)に包んだ大小刀三本と血染めの脇差を腰に差していたことによる。勝吾はただちに下野国壬(み)生(ぶ)城に送られ死罪処刑のところ、俄かに勝吾の身柄は代官大竹左馬太郎に預けられた。勝吾は他の囚人とともに越ケ谷宿に護送され、さらに代官の吟味をうけたが、結局越ケ谷宿で釈放されることになった。
勝吾の申し分によると、郷里真壁郡坂井村の地頭の用人原権右衛門外一名から道案内を頼まれ、三月二十三日流山村に一泊、翌二十四日吉川町榎戸通りを江戸に向かうところ、すでに官軍方出兵により松伏領赤岩村(現松伏町)の柳屋という旅籠屋で武装を解いた。
ここで原権右衛門外一名の所持する刀や風呂敷包みが勝吾に預けられ、越ケ谷宿旅籠屋鍋屋清左衛門方まで持参するよう依頼された。勝吾はこの日、原権右衛門らに命じられた通り松伏村から越ヶ谷宿に向かう途中、増林村地内で捕縛されたのだという。つまり〝誠忠〟と書入れた鉢巻を所持した原権右衛門一行が、流山村で一泊したという勝吾の供述が、近藤勇の逮捕とどのようにかかわりがあるか詳らかではないが、それから間もなく流山事件に進展していることは興味深い。
なお、四月三日に捕縛された近藤勇は四月四日越ヶ谷宿で一泊したともいわれ、翌四月五日板橋宿の官軍本部に護送された。ここで厳しい取り調べをうけた後、同月二十五日処刑され、その首は京都に送られて三条河原にさらされた。年いまだ三四歳であったという。
(本間清利稿)
