小菅県の開設

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 小菅県は明治二年一月十三日に成立し、明治四年十一月の廃藩置県まで、わずか二年十ヵ月間存続した寿命の短かい県である。

 現在の東京都足立区千住、千葉県松戸市、埼玉県草加・越谷市域を中心とする三〇〇余ヵ村がその支配地で、県庁は小菅村(元郡代屋敷跡、前小菅刑務所地)に置かれた。

 県令(知事)は宮津藩出身の河瀬秀治で、彼はのちに印旛県令、熊谷県令を経て、内務省勧業局長となる維新政府のエリート官僚であった。

 彼の前任は武蔵知県事であったが、この末期すでに武蔵国内の旧幕領の分割支配が行われておりこれを基礎に小菅県が成立している。

 県成立前、河瀬知県事に支配された村々は、市域では越ヶ谷宿、大沢町、西方村、登戸村、大間野村、七左衛門村、瓦曾根村、越巻村、蒲生村など九ヵ宿村であった。のち明治三年六月に至り四丁野村、神明下村、荻島村、西新井村、長島村、大房村、花田村などが編入されている。

 県成立当初の急務は治安対策であった。早速、旧来の行政、治安の単位であった寄場(よせば)組合、大小惣代の制を廃止し、県内限りの最寄組合を編成したが、市域は伊原、登戸、蒲生、瓦曾根、西方の諸村が他十九ヵ村とともに八条領組合を結成している。

 越ヶ谷、大沢は他村および編入村も含めて越谷領組合となったようである。

 この組合村には一~二名の触元役(触れを出す中心の役の意)が置かれ、大庄屋的役割をになった。越ヶ谷宿では大野佐平次が選出されている。草加宿には小菅県出張所、取締所が置かれ、その廃止後は大沢町に小菅県取締所が設置された。

 村々にも取締所が、越ヶ谷宿には見張所が取り建てられ、保安に万全を期している。

 治安対策のほか、河瀬県令が開明的官僚であったことから、全国的にも独自な施策が早期に行われた。

 その一つは学校で、明治二年六月から郷学校が小菅村の正学寺に取り建てられ、翌月から開校され、一〇歳以上の者の入校が期待された。

 その後、各村に「一村学校」を設置するよう勧奨されており、西方村では大徳寺をこれにあてようとしていた。明治五年以後学制頒布により全国的に実施される小学校のはしりであった。