越ヶ谷分署の開設

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 明治元年は幕府が崩壊し、新政府が成立する過渡期であり権力の空白期であったため、その前期はことのほか治安が乱れていた。強盗の横行により金銭強奪のみならず殺害、暴行が続発していたのである。このため越ヶ谷宿周辺の村々は、成立早々の維新政府に対し、取り締まり方法の早期決定を願い出ていた。

 当時、このような状況は一般的であったから監督責任者の武蔵県知事は、配下の役人を廻村させ治安にあたらせたが、新しい警察組織も成立していないことから、防禦方法はもっぱら各村の自衛にまかされていた。

 越谷周辺の村々では、組合村(数ヵ村単位)限りに「人夫」を選び夜警、見廻りをさせ、怪しげなものを見つけ次第、拍子木その他の鳴り物をならして大勢を呼びあつめ、とりおさえようと申し合わせている。これは民衆自身で防ぐ、自治警察的なきざしといえよう。

 しかし、維新の不徹底さと強盗の横行はこの方法を不要にし、ついに官設警察的色彩を強めていく。

 従来、役人の廻村に先立ち、「道案内」と称する者が各組合村で選ばれ(越谷組合は五名)役人の補助をつとめたが、明治二年には「捕丁」と改称され、越ヶ谷宿組合に一名と、その補助者一人が配置されることになった。

 その後、明治四年、埼玉県になると「警察附属」と改称され、附属小頭、同副、以下三等附属まで階層が設けられ、越ヶ谷町に「警察附属屯所(とんしょ)」が置かれた。これが明治八年三月に「邏卒」(らそつ)と改称され、各々一等邏卒から五等邏卒となり、これに応じその詰所は「邏卒屯所」(らそつとんしょ)と改名した。

 同年十一月には「巡査」と改称され、以後この名称はながく続いたが、明治十年一月には屯所を分署と改め、巡査屯所は「越ヶ谷分署」(警察署)といわれるようになっている。

 この間、明治七年十二月から各村ごとに壮健な者二~三名ずつ「警察附属協応方」を命ぜられて警察体制を補強するとともに、明治八年四月には「邏卒休息所」(のち「巡査休憩所」)を越ヶ谷町周辺村に五ヵ所設けており、のちの巡査駐在所の先駆けとなった。

大正初期の越ヶ谷警察分署