明治十年、警察機構がととのってくると越谷でも、従来各村から採用されていた警官は、やがて他県の士族出身者が多くなり、身分的にも士族につぐものと意識され出した。
これに応じて新政府役人の先端として庶民に君臨するようになり「お役人の恐ろしさ」を印象ずけるために役立った。
当時の新聞によれば、埼玉県下の村々では「警察官吏を恐るるはなはだしきこと鬼の如し」(朝野新聞)とある。
ときあたかも、警察機能も明治八年をさかいに従来の法外者、犯罪人を取り締まる司法警察から、民衆の日常生活まで取り締まる行政警察の時代へと変化していた。
この年の「邏卒(らそつ)から「巡査」への改称は、まさに巡邏する人(卒)から巡邏し検査する人への変化を表わしていよう。
このような変化を示す代表的な仕事は戸口調査であった。
当時、警官をした人の思い出話によれば、立番のない日は戸籍簿をもって軒別に歩き廻ったが、これは犯罪の摘発だけでなく、予防検束を目的としたという。
「明治百譜」によると次のような話がある。
「戸籍検査の時にまず第一に目をつけるのは娘の腹だそうです。というのは、当時田舎では非常に堕胎が多かった。ところでこれを発見すると二円五十銭になるそうで、従って娘の腹をせいぜい注意しておく。万が一これがへこんだら大変、血眼になって証拠を探りこれを上申する。(中略)今と違って昔はひどいものでした。」
なお、巡査を「おまわり」と言うが、この言葉はすでに幕末に用いられており、市中を巡邏し、警備する者を「御廻り」と言った。
同じ役割を後年の巡査がするようになったので、これを「おまわり」という。
当時の警官には在勤中、官服(戒服)、靴、雨衣などのほか、目標としてのガス灯が貸与されていた。明治八年、西方村山崎某が退任の際その返済が請われている。
こうした役人の衣住を通じて、村々の風俗も近代化されていった。
(渡辺隆喜稿)