諸制度の改革

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 地下鉄日比谷線の開通は従来の農村的な小都市越谷を一挙に東京に結びつけ、その住宅都市として急速に変貌する契機となった。このような町の変化は、交通手段の変化によって生ずることは全国どこでも同様にみられるものである。とすれば、越谷では明治三十二年の東武鉄道の開通も、さらに江戸時代の交通制度の変化も町の情況を知るうえで重要なことになる。

 越ヶ谷宿が越ヶ谷町と改称されたのは明治二十二年四月一日である。新しい町村制の実施にともなう名称の変更であった。だが、越ヶ谷宿の名称の由来となった宿場制度は、明治五年八月には廃止されていたことからみれば、町の実態的な変化はこの時点で考えるべきであろう。

 明治五年は、前年施行された廃藩置県にともなって、岩槻(のち浦和)に県庁をおく埼玉県が新設され、越谷地域の南半分の旧小菅県に所属した村々と、北半分の旧浦和県下の村々が統一されてこれに編入され、新しい諸施策が次々と行われた時期であった。

 二月には埼玉県出張所が越ヶ谷におかれ(同八月粕壁へ移る)三月には従来の町村制にかわって区制がしかれ、越ヶ谷は第二区に属した。名主・組頭の呼称が廃止され区長・戸長・保長などと呼ばれるようになった。最初の戸長は大野佐平次、副長は大沢の島根喜兵衛である。二区内の捕亡方附属(現在の警察官)には大沢の島根荘三ほか六名が任ぜられている。

 七月には伝馬所が廃止され、従来の周辺村々の応援体制である助郷制も廃止され、かわって政府指導の私的経営的な陸運会社が設立された。越ヶ谷では旧名主の松本利兵衛が担当したが、彼はまた同時に設置された郵便御用取扱人も兼ねていた。しかし、これらの関係史料が残っておらず、宿駅廃止後に生じた変化を具体的に知り得ないのが残念である。

 越ヶ谷宿の主要機能である宿場が新しい交通・通信形態に変わると共に、生活面も大きく改変されることになった。

 土地・税制の改正に第一歩がふみ出され、やがて米納の年貢から金納の国税・地方税となるし、学校の開設も指令され、四丁野迦摂院が予定され開設に努力されている。また太陰暦にかわって太陽暦が採用され、十二月三日をもって六年一月一日とされた。祝祭日も定められ、時間も一日二十四時間となり、従来書き慣れた何字という称は何時と改められた。葬式も仏葬から神葬祭に変更することが多かったのもこの頃である。

 従来、神官は葬式に関することがなかったが、この年六月、政府は氏子より神葬祭を依頼された場合、喪主を助けて執行すべきことを布達したからである。維新以来、仏教を冷遇視し、神道を国教視する政府の方針が反映していたのである。

 だが、越谷では旧習一新はすぐにはできなかったようで、数年後の新聞には、東京に近い場所柄でありながら文明開化の遅々として進まないことが報道されている。