明治十年代から二十年代にかけ、埼玉県でもっとも早く洋画を志した先駆者の一人に倉田弟次郎がいる。かくれた人物の発掘に尽力する洋画史の研究者松島光秋氏によると、弟次郎は明治三年漢学者倉田幽谷の次男として東京に生まれた。浦和師範学校高等科を卒業すると組合立越ヶ谷高等小学校の教員として赴任、当時同じく同学校の教員であった増林村榎本英蔵氏の離れ家に住居した。
おそらく、弟次郎が越ヶ谷高等小学校に奉職したのは、浦和師範学校高等科在学当時の先輩榎本英蔵氏の招きによったもので、弟次郎十八、九歳の頃とみられている。また弟次郎が洋画を志したのは十五歳の頃からといわれ、教員生活のかたわら洋画の勉強に努めていたようである。その後弟次郎は明治二十四年「明治美術会」のリーダー浅井忠に招かれ、越谷を去って上京したが、そのとき貧しく名もない青年画家を、親身になって世話してくれた榎本氏に対し、御礼の代りにと寺門の風景を画いた一枚の水彩画を寄贈していった。
榎本氏の現当主謙二氏によると、この風景画は大相模の不動で有名な西方村(現相模町)大聖寺の庫裏に通じる山門を画いたものといわれるが、画の下方に「T・KURATA」(ティー・クラタ)のサインがあり、あきらかに倉田弟次郎のものであることが確認されている。この作品は、白壁の摒に続いた萱葺(かやぶき)屋根の山門、その山門から人影もない落ちついたたたずまいをのぞかせている庫裏の一部、しかも山門の前に白犬が日なたぼっこをしているなど、晴れた初冬の日の情景が目のあたりに感じとれる優佳な風景画である。
今からおよそ百年ほど前の絵が、このように今なお完全な形で残されたのは、古くからこの絵が榎本家の風通しの良い居間の額に収められ保存されていたからだといわれる。大きさは縦三十センチ、横四十センチのものである。
この絵を榎本家に残して東京に出た弟次郎は、浅井忠の門下に入り師の直接指導を受けて明治美術会の会員になったが、明治二十四年五月の同会による第三回明治美術会展覧会に「農家」など二点の水彩画を出品し見事に入選を果たした。続いて第四回・第五回の展覧会にも、「野寺の景」(水彩)、「春郊」(油絵)など五点を出品、いずれも入選して将来を嘱望(しよくぼう)されたが、肺結核を患い二十七年一月十六日年わずか二四歳で病没した。このため、天才画家倉田弟次郎の作品はきわめて少ないといわれるが、その一つが越谷に残されていたということは深い因縁といえよう。
なお洋画の一派「春陽会」の創立者の一人浦和市出身の倉田白洋は、実は倉田弟次郎の実弟で、弟次郎亡きあとその志を継いで洋画界に入ったといわれ、明治三十一年明治美術会展覧会に兄の遺志をついで入選を果たした。従来埼玉洋画の源流は、この倉田白洋が先駆者とみられてきたが、弟次郎の絵画が越谷で確認されたことから、幻の画人倉田弟次郎がにわかにクローズアップされ、埼玉洋画の草分けとして美術関係者による調査が進められようとしている。
同じく松島光秋氏調査によって明らかにされた二科会創立者の一人として著名な斎藤豊作は、西方村の旧家斎藤家の出身であるが、豊作は若くして越谷を離れ東京で活躍、その後フランスに渡ってその地で没した。逆に東京の出身者倉田弟次郎が越谷に数年間居住、貴重な越谷の風景画を残してくれたということは感無量なものがある。いずれにせよ、弟次郎は越谷文化の一頁にその足跡を残したということがいえよう(読売新聞 昭和五十四年六月二十六日付朝刊参照)。
(本間清利稿)
