政治結社「越ヶ谷団体」

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 明治三十五年八月一日、蒲生村清蔵院(せいぞういん)で越ヶ谷団体推薦の衆議院議員候補者川上参三郎の演説会が開かれた。午後二時開始、越ヶ谷団体を代表し大塚善太郎が開会の趣旨、選挙の悪弊、候補者批評を述べたのち、川上は財政および教育問題を三時間にわたって演説した。前日の越ヶ谷町久伊豆神社境内での演説会には約五〇〇名余が参加し、満場立錐(りつすい)の余地なき有様であったという。

 当日の埼玉新聞投書欄に一有権者は、この様子をみて、従来、川上という男はいい奴ではなかったが、今日、岩槻を中心とする相手候補者宮内翁助派の重囲の敵地で、学者ぶらず平易に長演説し、聴衆を魅了したのは立派である。今までのゆきがかりを捨て、断然川上に投票したいと述べている。

 川上参三郎は荻島村の出身で、早くから県中央で活躍し、壮士団体の平民同盟会に所属し、「埼玉平民雑誌」を発刊し、その廃刊後は「埼玉新報」を刊行し、県内言論界をリードする立場にあった。

 大塚善太郎は父親善兵衛の代から川上と親しく、越ヶ谷町に新聞販売所「協立舎」を経営したが、この社友には越谷周辺の有力者を網羅(もうら)している。

 明治二十五年二月実施された第二回衆議院議員総選挙は、品川内相による選挙干渉が行われた有名な選挙であったが、県下では越ヶ谷の属する第三区が最も激しく、警察と郡役所を通じてのこの干渉に対し大塚善兵衛、出羽村小林信左衛門らを先頭に、越ヶ谷地区は民党側に立って一団として抵抗している。この善兵衛のもとで成長した善太郎は、三十年代には「則鳴」と号し、埼玉新報の有力な記者であった。

 平民雑誌および埼玉新報の論調は、民党の中でも自由党系で、十年代の自由民権運動の流れをくみ、改進党系の進歩党(のち憲政本党)と対立しており、これまでの選挙で川上は、反対党候補者の壮士に踏み込まれ、家財を破壊されたうえ負傷したこともあったという。当時の政治家が壮士、記者、弁護士として能力のみでなく、度胸も必要として政界に進出したことが、有権者の感想にもあるように、日々の生産にたずさわる素朴な村びとからみると、ヤクザ稼業にみえたのではなかろうか。越ヶ谷団体は越ヶ谷領を中心とする自由党(のち政友会)系の政治結社で、二十五年から翌年にかけての自由党埼玉支部結成の集会には、川上参三郎、大塚善太郎のほか、桜井村の高崎鉄之助、深野恒三郎、出羽村の井出庸造、中村悦蔵、大袋村の尾崎麟之振、大沢町の島根荘三、荻島村の川上次郎右衛門、越ヶ谷町の中川元吉、関根宇一郎らが発起人として参加したが、彼らはほとんど「協立舎」の社友であり、越ヶ谷団体の基礎はこの頃に確立したものと思われる。結局、越ヶ谷団体推薦の川上は他郡有志の応援を受けながらも九三三票で落選した。

 越ヶ谷団体はこの直後「儆世倶楽部(けいせいくらぶ)」と改称し一新をはかったが、この選挙は越谷の近代史上において衆議院選を自前候補で戦った最初にして最後の選挙となった。

(渡辺隆喜稿)

現在の清蔵院