閣議を終えた大隈重信外務大臣が、霞が関の官邸へ帰るおりしも、外務省正門まえにおいて突然、爆裂弾をもった暴漢におそわれた。さいわい命に別状はなかったものの、馬車の幌に当ってはねかえった爆裂弾の破片が原因で、大隈外相は右足を切断せねばならなかった。ときに明治二十二年十月十八日午後四時五分頃のことである。
この事件は条約改正問題に端を発し、大審院に外人判事の任用を認める大隈案に、反対する国粋主義者の福岡玄洋社員来島恒喜がひき起したものであった。同社員頭山満もこの件で逮捕されている。このとき、彼ら保守主義者と提携し、反対運動を展開したのは自由党系の人びとであった。
とくに川上参三郎の所属する壮士団体の平民同盟会は、この革新系の運動の原動力ともなっていた。その関係で保守派と急進派の相違をこえて、狙撃(そげき)の後自刃した来島の遺体ひきとりに努力している。埋葬の費用のなかった川上らは、この夜、浅草の馬車業者「栄盛舎」より馬車を仕立て、夜通しかけ帰り、資金調達を友人の越ヶ谷町大塚善兵衛に依頼した。荻島村長川上次郎右衛門より五〇円を工面してくれというのである。
川上はその荻島村長の三男であった。にもかかわらず実父に直接頼めなかったのは、早くから政治運動に身を投じ、家をとび出していたからであろう。とにかく、この資金によって、ようやく来島の墓所を設けることができたという。
当時、川上参三郎は二五歳である。東京では壮士(乱れ髪の書生風俗で意気を示す職業的政治家、のちの院外団)達の幹部クラスであり、この事件が起こるまえ、すでに仲間とともに元老院へ条約改正中止の建白書を提出し、もしこの書をいたずらに取り扱うときは、「最後の一手段」をとるぞと係官を嚇(おど)している。
この頃より彼は埼玉県内で青年会を設け、各地で政談演説会を開いているが、やがて浦和に埼玉平民雑誌社を起して、社長となり、荻村(荻島村の意)と号して健筆をふるった。越谷地域がこの時期をさかいに、改進党の地盤より自由党の地盤へと変化するのは彼の力にあずかって大きかったのである。
(渡辺隆喜稿)