江戸川筋御猟場

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 市内大林の埼玉猟場は、ほぼ全市域を銃猟禁止区域として明治四十一年に成立した。成立当初の皇太子来猟の模様をみると、東武鉄道両国駅から越ヶ谷駅まで一時間十三分を要し、越ヶ谷駅から皇室専用の人力車で大林の鴨場に入っている。村々では駅に紅白の幕を張りめぐらし、鳥の子餅献上の用意をする一方、送迎する村人はえん尾服・フロックコートまたは羽織・はかまをつけ、在郷軍人は軍服を着て越ヶ谷駅より鴨場道の踏切に至る間に整列した。

 こうして迎えられた皇太子は六時間後再び村人に見送られて帰京している。

 以来、大林の御猟場は皇室の猟場として、皇族はもとより、諸外国から来日した国賓の接待場としても利用されて現在に至っている。

 ところでこの御猟場成立の前史はどのようなものであったろうか。この模様を村々との関連でみてみよう。

 明治十一年六月、時の内務卿伊藤博文は、天皇の遊猟場を埼玉県下にも定めていたので、適宜の地を選定するよう県令に命じた。

 これに対し、埼玉県では八条領や二合半領など四ヵ所を適地として上申したが、最初決定をみた御猟場区域は越巻、七左衛門、谷中、四丁野、越ヶ谷、瓦曾根、西方、東方、見田方、南百以南の村々であったようである。

 しかし、この地域が「江戸川筋御猟場」としてその基礎を確立したのは明治十六年五月であった。

 この時、御猟場に所属した地域は、大林、大房を含む陸羽道(旧四号国道)以東の旧三三ヵ村であり、以西の出羽、荻島、大袋地域の村々が編入されたのは明治十七年六月に至ってである。

 この猟場は、埼玉県では北足立、南埼玉、北葛飾の三郡にわたり延長約一〇里(約四〇キロメートル)、幅約六里(約二四キロメートル)、面積約三万町歩(約三〇〇平方キロメートル)で、明治二十二年合併の新町村で六六ヵ所を含み、江戸時代以来幕府をはじめとする鷹場の地として鳥類繁殖の土地であった。

 この江戸川筋御猟場は三区に分かれ、一、二区は埼玉、三区は千葉側であり、越谷地方の第一区は「鳥類畜養の地」として特に重視されていたようである。

 宮内省では最初、一、二区に監督守長および監守人(三区は取締長および取締人)を分駐させ、猟場内の取り締まり監督にあたらせたが猟場内町村の有力者も登用し、江戸川筋御猟場内監守人附属として「御猟場見回方」に任命している。

 蒲生村の高山源兵衛、大房村の中村清太郎ら五人が最初に見回り人に任ぜられ、特別に鷹・鳩・雀の三種に限り捕獲することを許可された。