日露戦争と越谷

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 戦前三月十日は陸軍記念日と称する祝日に当っていた。この日は、明治三十八年三月十日、日露戦争の勝敗を決した奉天の大合戦で日本軍が勝利を収めた日である。日露戦争は、いうまでもなく明治二十七、八年の日清戦争勝利後、露国(現ソビエト連邦)などの干渉をうけ、満州進出が制約されたことに端を発し、日露両国勢力の衝突となって明治三十七年二月、日本軍仁川上陸によって開始された。

 この戦争で動員された将兵は一一〇万余人、戦没者および傷痍軍人数は一二万余人に達したといわれる。たとえば桜井村(現桜井地区)での出征兵をみると、現役一三人、予備役一一人、後備役九人、補充兵一七人、帰休兵一人の計五一人にのぼった。また戦没者は蒲生村で八名、増林村で七名、荻島村で五名、出羽村で三名、越ヶ谷町で二名、大沢町で四名などを数えた。

 このうち戦没者の一人越ヶ谷町陸軍歩兵上等兵の戦役履歴書によると、この兵士は明治三十七年八月十二日召集をうけ、同十一月十五日大阪港を出航、同二十日清国(現中国)青泥窪に上陸、翌二十一日金州県金竜寺溝に到着、同二十六日から旅順港松樹山の攻撃や、同三十日から十二月一日にかけての赤坂山の戦闘に参加、同十二月十八日旅順港二〇三高地の攻防戦に奮戦、このとき前頭部に弾瘡をうけて戦死、戦功により功七級金鵄勲章ならびに勲八等白色桐葉章の授与をうけ、年金一〇〇円が下賜された。

 しかし動員令によって応召した出征軍人のなかには、一家の支柱を失って生活に困る家族も少なくなかった。たとえば、桜井村出征者のある家では、「農家ヲ営ナムモ土地ヲ有セズ、小ナル家屋アルノミ、小作ニヨリ玄米四斗、大麦二斗、大豆一斗ヲ得テ僅カニ日々糊口ヲ凌(しの)ギ居ルモ貧困ヲ免レズ」一家の支えであった主人が出征後は「妻ガ僅ノ小作ヲナスモ平素身体虚弱、殊ニ幼児等アルニヨリ業充分ナラザル為メ貧窮」におちいっているとある。

 また同じく桜井村の出征者の一人は「一家ノ主導者ニシテ平素業務ニ勉励シ、漸ク一家ヲ維持シ来ルモ」出征後は「妻ガ一家ヲ主宰シテ農業を営ムモ母ハ老年ニシテ労力ニ堪エズ、殊ニ弟ハ生来病身ニシテ家業ノ助トナラズ、妹ガ他家へ雇ニ入リ賃金ヲ以テ家計ノ何分カ補助スルモ、老幼病者ノ家族アル為メ貧窮セリ」とある通り、悲惨な境遇に置かれた家も少なくなかった。これに対し政府は忠君愛国の名のもとに国民の犠牲を強要するばかりで、出征家族の保護などは、すべて町村自治体を主体とした特殊組織にこれをゆだねていた。

 このため各町村では「出征軍人家族救護会」などと称する会により、家族の救援にあたったが、越ヶ谷町救護会の決算書によると、家族の救護費に金一二六円五〇銭、疾病軍人と家族慰労費に金一六円が支出されていた。このほか南埼玉郡役所では、出征者の生活困窮家族に対し医療の無料診療を実施したが、この無料診療に登録された家数は、大袋村で一四軒、増林村で一一軒などとなっており、医院数は越ヶ谷町四、増林村三、大沢・大相模・蒲生・川柳・荻島各一医院となっていた。

 かくて日露戦争は、明治三十八年八月、ポーツマスで講和会議が開かれ終戦を迎えた。多くの町村では戦勝を記念し、記念碑や忠勇碑が建立された。このうち越ヶ谷町の記念碑は金七九円八銭を費やし久伊豆神社境内に建碑された。増林村では同三十九年護郷(もりさと)神社境内に乃木希典筆による忠勇碑が建てられた。その後政府は三月十日の奉天戦勝利の日を陸軍記念日と定め、さまざまな祝賀行事が催されてきたが、くしくも昭和二十年三月十日、東京大空襲により、東京全土が灰塵に帰したのは、まだ人びとの記憶に生々しい。

(本間清利稿)

明治39年,増林村の忠勇碑除幕式