日露戦争の軍事郵便(昭和四十九年十月一日号)

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 最近、旧川柳村役場所蔵の「明治三十七年二月六日 征露軍人書翰往復綴」という書冊がみつかった。この書冊は川柳村から日露戦争時に応召した人々の役場にあてた葉書や手紙をまとめたもので、日露戦争に参加した庶民の様子を知るためには貴重な資料である。

 川柳村からの出征は明治三十七年二月五日現在で、陸軍に現役兵一〇、帰休兵一、予備役兵八、後備役兵七、第一補充兵一九、国民兵四の四九名、海軍(海兵団)には現役兵五、予備役兵二、第一補充兵一の八名、陸海軍で合計五七名に達している。

 陸軍は東京の近衛師団に二一名、関東諸県と長野県を管区とした第一師団に二六名、北海道(旭川)管区の第七師団に二名で、兵種でいえば歩兵二三名、騎兵一名、砲兵四名、工兵二名、輜重兵一九名である。

 役場ではこれら郷土からの応召兵に対し、「皇国忠実ナル海陸軍人及従軍者ニ付キ身体健康ナラシメン為メ祈禱祭」の執行を御獄神社に依頼し、兵士の無事を祈っている。

 日露戦争は臨時軍事費だけで一五億〇八四七万円、動員兵力一一〇万人、戦病死・廃疾一二万人と大変な規模でおこなわれ、国民の負担は重いものであったが、川柳村の戦病死者等は資料がないため判明しない。

 開戦当緒日本軍は朝鮮に兵力を増派し、鴨緑江をうかがい、近衛師団と第二師団からなる第一軍主力を大同江口の鎮南浦に上陸させ南満洲の制圧をめざして、三月十一日から作戦行動を開始し、四月二十一日には鴨緑江岸の義州付近に戦闘を展開し、二十九日は鴨緑江渡河を開始、五月一日には南満州の鴨緑江岸の拠点、九連城を占領した。

 川柳村から近衛師団に応召した人々はこれらの戦闘の詳報とかなり素直な感想を故郷に伝えている。

 その一つを紹介しておきたい。

 「(前略)鴨緑江ノ架橋ヲ渡リ虎山ヲ左側ニ望ミ大イナル石ノ河原ニ至リ休息セシ頃ハ夜ノ二時ナリ、寒風烈シク膚ヲ貫ク如シ何レモ此ノ附近ノ小河川ハ橋ナクシテ渡渉シツツ進ム深サ腰程ナリ、ソレヨリ大橋ヲ渡リ行ケバ哀レナル哉街道両側清国人ノ家屋露兵放火ヲナシ焼失シヲレリ、今度ハ約二千米実ニ過タル河川ヲ渡渉ス深サ頸程アリタリ、ソレヨリ約千米間ノ広キ砂河原ニ散開シ敵ノ様子ヲ見ルニ砲声銃声烈シク聞ヘタリ、吾第二大隊ハ前進シ九連城方向へ一ッツツ散兵壕ヲ作リ終リシ頃ハ最早夜ハ明渡レリ、五月一日晴天ナリ、今ヤ遅シト敵ノ況ヲ見居ルニ更ニ何事モナキ故各中隊ヨリ兵若干ヲ率ヘ将校斥候ヲ出セシニ俄カニ敵ハ射撃ヲ始メタリ、吾軍モ一時驚怖セシガ直チニ一同一斉射撃ヲ五六回行フ(中略)敵ハ我軍ノ勇盛ニ恐屈シテ一時全ク射撃ヲ止メリ、此ノ時吾ガ軍モ河川ヲ渡渉シ突貫シツツ思ワズ万才ノ声ヲ唱へ鴨緑江九連城ヲ占領セリ(後略)」

(小川信雄稿)

川柳村役場宛の軍事葉書