越ヶ谷郵便局と電話の開通

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 越ヶ谷郵便局の創設は、明治五年七月一日であり、明治四年一月に郵便規則が制定されてから一年半あまり後のことであった。初代の局長には越ヶ谷町の松本利兵衛が就任した。

 はじめ三等局として発足した越ヶ谷局は、普通郵便業務だけであったが、後に貯金事務(明治十八年六月)や内地為替(同十九年十一月)、小包郵便(同二十六年七月)なども扱うようになり、明治二十八年には外国為替と和文電信事務を開始して名称も越ヶ谷電信局と改められた。

 同三十六年四月に、電信局は全国各地とも一般に郵便局と改称され、ほぼ今日の郵便局と同じような業務を行うにいたった。越ヶ谷郵便局の郵便集配区域は、越ヶ谷町・大沢町の外、大相模・蒲生・出羽・荻島・大袋・増林・桜井の七ヵ村であった。

 明治四十一年七月、越ヶ谷郵便局では電話通話事務を開始し、町には電話が敷設(ふせつ)された。これが越谷の電話の始まりである。この時の電話加入者数が何名であるかは今のところ不明であるが、当時の地方新聞である埼玉新報には、七月二十一日に電話開通式を盛大に挙行し、電話架設につき寄附者七十余名に記念盃を贈ったと報道されている。

 その後、明治四十四年四月に第二回特設電話の敷設があって電話の加入者数は十九番までとなっており、大正五年の三月になるとその数も四十七番までとなっている。当時の電話番号表を紹介してみると、

  零 越ヶ谷局公衆通話用

  一 同一般事務用

  二 日進銀行 越ヶ谷支店

  三 中村彦左衛門

  四 油長 山崎長右衛門

  五 ぬし市 小泉市右衛門

  六 万寿屋 会田善次郎

  七 遠藤弥市

  八 遠藤平吉

  九 島田屋 島田武男

 一〇 松本利兵衛

 一一 山田内科医院 山田直三郎

 一二 宮内省埼玉鴨場

 一三 越ヶ谷警察分署

 一四 うどん屋 大山伊之助

 一五 回陽堂医院 森田喜代蔵

 一六 松花堂医院 山口静衛

 一七 天よし 柳瀬芳五郎

 一八 かが屋 木村藤吉

 一九 越ヶ谷停車場

 二〇 中村順二郎

 二一 越ヶ谷屋 藤田善兵衛

 二二 鍛冶忠 会田太助

 二三 マル通 川上運送店

 二四 早川歯科医院 早川三郎

 二五 佃屋 大野伊右衛門

 二六 釘太 井橋太郎兵衛

 二七 しらば 会田吉五郎

 二八 氷川貯蓄銀行 越ヶ谷支店

 二九 帝国電燈株式会社 越ヶ谷営業所

 三〇 出羽村役場

 三一 鱗大運送店 中村藤吉

 三二 永楽屋 田中吉之助

 三三 糀屋 都築八右衛門

 三四 斉藤益太郎

 三五 桔梗屋 荒井麟三郎

 三六 卵屋 清水次郎吉

 三七 武陽水陸運輸株式会社

 三八 中井銀行 越ヶ谷支店

 三九 大松屋旅館 福井権右衛門

 四〇 桃木長蔵

 四一 亀屋 荒井金蔵

 四二 越ヶ谷町役場

 四三 鈴木源兵衛

 四四 佃屋支店 大野権兵衛

 四五 荒井吉右衛門

 四六 森田波次郎

 四七 協立舎 山崎恭助

となっている。

(原初男稿)

昭和初期の雪の越ヶ谷町