越ヶ谷古梅園

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 越谷市北都の古利根川、元荒川の自然堤防帯では、古くから果樹の栽培が盛んであった。元荒川に沿う大林、大房(北越谷三~五丁目)では市街化した今日でもなお梅、桃の栽培が行われている。

 梅は古木になると実なりが減少することから新木に植えかえなければならなかった。このため多くの古木を伐採されるので、これらの古木を一箇所に集め観覧に供しようということになった。明治三十五年三月、藤井浦祐氏ら八名が発起人となり、大袋村長ら多数の賛助員によって、大房浄光寺を中心とした越ヶ谷古梅園が開園された。園の広さは約一町歩であったが、地続きに農家の梅林が一帯に広がり、あたかも梅の郷といった風情があった。このなかには、株まわり一メートル前後の大木が数本あり、それぞれの樹姿により「天の橋立」「雲龍梅」「日の出梅」などと呼名がつけられた。園内には休憩所としてのあずまや二棟、緋毛氈(ひもうせん)を敷いた床几(しようぎ)二十脚のほか、宇田川吉蔵氏ら三名の出店(売店、茶店)があり写真ハガキも売られた。

 古梅園は東武鉄道武州大沢駅(現在の北越谷駅)に近く、東武鉄道も観光に一役かった。各駅や車内は勿論、市電内にも宣伝ポスターをはり、梅花期である二月十一日から三月二十日までの四十日間は往復切符を二割引きとした。さらに古梅園に対しては、年間二十円の肥料代を与えた。このためシーズン中の日曜日などは、駅から古梅園までの道には人の行列がつづいたという。

 大正時代になってから害虫の発生が多く、花芽を喰ってしまうので梅花が年々少なくなる一方、推持管理などの問題もあって、株式設立による古梅園は大正七年三月に解散し、古梅園は浄光寺が引き継ぐことになった。その後、梅林は徐々に回復し、昭和十六、十七年には東武鉄道が主催して、都内の俳人、マンガ家、画家、小説家など文化人を招待した園遊会が開かれた。そのとき訪れた高浜虚子は、〝寒けれど あの人むれも 梅見客〟と詠んでいる。前田雀郎、岡安迷子、長谷川かな女らのほか、宮内庁御猟場を訪れた皇族方も来園された。

 太平洋戦争後の昭和二十六年から開花期に光頭会が開かれるようになった。別名ハゲ大会といわれるハゲかたのコンクールである。審査によって等級がつけられ賞品もハゲにちなんでヤカン、タコ、鏡、電球、蝿叩きなどであった。昭和二十九年の大会には女優三名を迎えて撮影会も同時に開催された。この時の記録映画は遠くブラジルにおいても上映された。

 現在、梅の木は枯れたり、風に倒れたりして古梅園当時を偲ばせる古木は僅か二本になったが、近年多数の若木を植えたので梅花シーズンになると市内外から梅見客もふえて、浄光寺境内は再び賑わいをみせている。

(高崎力稿)

越ヶ谷古梅園の写真ハガキ