越谷地域の洪水タイプ

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 これまで越谷地域を襲った洪水には内水湛水型と外水氾濫型のふたつのタイプがみられた。このうち内水湛水型の洪水は、かつての中川流域の排水河川能力が計画日雨量一二〇ミリメートル、排水量一平方キロトーメル当たり毎秒○・三五立方メートルであったので、一〇〇ミリメートル以上の降雨があると、中川が湛水となり排水能力を失ってしまったからである。このため増林地区をはじめとして池沼跡の多い越谷地域の低湿水田地帯は、常習的な湛水被害地域となっていた。なかでも昭和二十五年七月と同三十三年九月の水害は内水湛水型によるものである。

 一方、頻発する内水湛水被害に比較すると、明治以降の近代的な治水事業のおかげで外水氾濫による被害は少なく、めぼしいものとしては明治四十三年の洪水が、また戦後では昭和二十二年のカスリーン台風による被害がみられる程度である。もっとも、中川水系における外水氾濫は、発生件数こそ少ないがひとたび発生したら最後、悲惨きわまりない大災害に発展する「災害の地域性」をもっていた。

 それは元荒川と古利根川の存在が示すように、もともと荒川と利根川は地勢にしたがって野田・大宮台地間を南下していた。それを江戸時代に瀬替えして人為的に現在の河道に押しやったものである。いわば、昭和二十二年九月の中川水系上流部における破堤と氾濫水の流下はごく自然の姿であり、それによってひきおこされた同水系全域におよぶ大水害は、起るべくして起った人災的色彩のつよい災害であった。

 ところで、越谷地方の洪水の性格はカスリーン台風の場合からも判るように、利根川決潰口に近い上流部の洪水に比べると、次のような特徴をもっていた。すなわち、流出した古利根川の濁水は、一瞬にして人家を破壊し、田畑を洗いながら決潰口から放射状に拡散していった。その主流は庄内古川から、中川沿いに南下し、利根川決潰より二日後には現三郷市大場川堤(桜堤)に達している。このような巨大な破壊力と速やかな洪水走時線(洪水の進行速度を示す線)の前進に対し、春日部南部から越谷地区にかけての洪水は、多くの地点からの漏水、または単なる溢流水が浸水範囲を拡大したものである。その間、洪水の一部は排水溝から排出されるものもあったが、千間堀(新方川)のように排水溝が満水逆流して、周辺からの洪水が到着する以前に溢流したものもあった。

 このように各所から各種の浸水が徐々に合して、広い洪水域を形成したところに、越谷地域の洪水型の特色があった。したがって、洪水走時線も四方八方から、あたかも勝手きままな方向をとって走り、その間隔(洪水進行速度を示す)も新方村の場合を除けば全般に狭く、洪水速度はそう早いものではなかった。この点も、洪水域と洪水量が広くかつ大きかった割りには破壊力が小さい、という越谷地域の洪水型の特色をかたちづくっている。

 また東武線大袋駅東方の元荒川自然堤防や、増林地区の千間堀などの微変化を伴う地形・地物に支配されて、洪水は著しく不連続な走時線を画くため、出水時間、浸水深度、湛水日数などに著しい地域差を与えることになった。

(新井鎮久稿)