明治四十三年の大水害

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 埼玉県は利根川、荒川及びその支流に臨んでいるために、古来からしばしば大水害にか

かっているが、明治四十三年の水害は、その中でも特に被害の大きいものであった。

 この水害の原因となった雨は、同年八月二日から降り始め、十二日までの十日間降り続いた。

 特に八月十日・十一日には、両河川の水源地である群馬県草津地方及び本県秩父地方では雨量二〇〇ミリメートルを越え、平地においても一二〇~一三〇ミリメートルに達し、各河川とも著しく増水した。

 このため、各河川とも堤防が決壊し、人畜・家屋・田畑に甚大な損害を被ることとなった。

 なかんずく利根川支流福川筋の中条村及び荒川筋の大麻生村の堤防決壊のため、濁流は北埼玉郡、南埼玉郡、北葛飾郡の各郡を流下し、遂に東京府に達した。

 特に南埼玉郡には元荒川・見沼代用水・綾瀬川・大落古利根川があり、その増水は著しいものがあったので、人々は警鐘を乱打して日夜水防に尽力した。しかし、十日に元荒川の水は豊春村の堤防を決壊し十一日には大袋村の埼玉鴨場裏の堤防が決壊して大沢町・増林村に浸入した。

 特に岩槻町から以南の越ヶ谷町方面に至る元荒川堤防上には、土俵を四~五俵ずつ積んで必死に防禦したが、十二日には背面の綾瀬川の水が荻島村長島の堤防を破壊したので、その濁流はとうとうと浸入して、荻島・出羽・蒲生の諸村にまで及んだ。現在の全越谷市域はすべて浸水を受けることとなった。

 市域内各地の具体的被害状況は不明であるが、当時の越谷警察分署管内の浸水戸数は、床上が二〇七四戸、床下が二七六一戸、合計四八三五戸で、戸数一〇〇につき浸水戸数の割合は六九・四パーセントであった。大体十五日ごろまでは増水し、以後は毎日多少減水して、二十五日ごろ平常に復した。

 浸水期間中の田畑は、見渡す限り一面の海と化し、ただ樹木のみが散在するという景観を呈していた。そのため稲の被害は甚大で、とくに中稲はほとんど無収穫となり、晩稲のみが多少収穫があった程度で、畑作の豆や野菜は全部腐敗しもろこしだけがわずかに残ったという状況で、農作物の損害額は大きかった。

 県では罹災者に対して直ちに罹災救助基金による各種救助を発動したが、越谷地方は全県下からみれば被害もさほど大でなかったので、食料救助と種子救助のみに止まった。

 災害後発生しがちの伝染病も、その防疫体制が早期に行われたので、越谷分署管内でわずか五戸のみであった。

(吉本富男稿)