キャスリーン台風と越谷地方

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 昭和二十二年九月埼葛六十九ヵ町村のうち六二町村を水没し去ったキャスリーン台風は、越谷地方にも大きな被害をもたらした。

 市内各地で堤塘破損箇所が続出し、特に被害のはなはだしかった増林村の場合をみると、逆川で二ヵ所、元荒川で十ヵ所、古利根川で十八ヵ所、千間堀で十一ヵ所の合計四一ヵ所が、総延長一九三三メートルにに渉(わた)って決壊した。これらの破損箇所は、湛水排除のために切門したもの二ヵ所以外はいずれも越水による流失であった。

 越水破堤による浸水被害は、記録によると、旧桜井村で床上浸水九七戸、床下浸水一九〇戸、同じく大袋村で床上二二二戸、床下六三戸である。とくに被害甚大な増林村においては、床上六五〇戸、床下二二六戸に達した。このため微高地に建てられた社寺や学校に緊急避難するものが続出し、なかでも増林村では小中学校、香取神社、宝正院等にのべ三一四二人が一四日間に渉って避難しなければならないほどであった。

 一方、災害発生と同時に各方面から救助の手が続々と差しのべられた。まず、災害発生二日めからのコッペパン、塩、タバコ等の緊急物資の特配に次いで、衣類、薪炭、畳等の生活必需品が被害程度に応じて配給された。脱脂ミルクほか一二品目のララ(アジア救済連盟)物資が、食べ方の念の入った説明書や、効能書つきで配給されたのも災害発生翌日のことであった。行政レベルの救助活動とともに、各地の個人や団体から見舞金や救助物資が寄せられた。比企郡宮前村(野菜)、愛知県蒲郡役場(瀬戸物)、静岡県田方郡江間中学校(学用品)、新和村農業会(救助袋)、大門青年団(甘薯)からの救援物資とともに、東京都佐久間学校疎開学童父兄有志や、同じく都内今川小学校後援会・PTAからの見舞金などは、水魔に痛めつけられた人たちを暖かい善意で包んでいった。

 ところで、広い範囲と長期に渉る大災害のために、また戦後、部落組織が解体され行政の末端ルートが完全にマヒしていたために、救援活動の方も、必ずしも有効適切に進められたとはいえないようである。それは、被災町村における救援物資の大量の滞貨や、不正流用に関する町村長宛の埼葛地方事務所の通達にうかがうことができる。その上せっかくの災害救助用の特配物資も有償配布品が多く、その恩恵を受ける事のできない者も少なくなかった。そこで、有償物資の一部無償化や代金支払期日の延期をはかるとともに、床上浸水にかぎり第一次封鎖預金を一人あたり四〇〇円、一戸あたり二〇〇〇円の限度額で解除した。

 こうして物資購入の便を図る等の策がとられたが、いずれもその実効は少なく、被災者の困窮を救うに十分ではなかったようである。

(新井鎮久稿)