儆世(けいせい)倶楽部と大正会

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 大正二年三月二十三日、大沢町うどん屋において儆世倶楽部の懇親会が開かれた。出席者は越ヶ谷の有滝政之助、小泉市右衛門、山崎恭助、増林の滝田滝太郎、新方の中村恵忠寿、荻島の川島一郎らこの地域の有力者三十名のほか、会の最高幹部大塚善兵衛、中村悦蔵の二名も参加していた。恒例の懇親会であったが、おりから流れ出した倶楽部解散の噂が話題となった。

 儆世倶楽部は明治三十五年十一月、大塚、中村のほか埼玉新報社の川上参三郎(荻島村出身)らを中心に結成された旧自由党の系譜をひく、越谷地域の政友会系の政治結社である。儆世とは世人をいましめるの意で、世人を政治的に目覚めさせる目的で結成されたものであろう。

 南埼玉郡内における儆世倶楽部は、北部の政友会、南部の国民党と鼎立(ていりつ)する有力な組織であったが、創立後一ヵ年も経過すると同じ政友会系でありながら北部と意見の衝突がおこることが多くなり、郡の中央に位置する関係からも、両派の勢力均衡地帯となる傾向が生じていた。この頃になると越谷政界も新旧交代の時期を迎え、人心一新のためにも新団体を結成すべきだという意見が多かった。

 同年五月八日、新団体である大正会の発会式が越ヶ谷久伊豆神社社務所で挙行された。

 この会の趣旨は、国政の基礎は地方自治にあるから国政担当者の選出には厳正に取り組むため、地方有志の交誼(ゞうぎ)を厚くするにあるという。会するもの三十余名。越ヶ谷、大沢、出羽、荻島など、越谷各地区の有志が参会した。ここに儆世倶楽部が解散され、旧指導部にかわって新進の滝川滝太郎、中村恵忠寿が最高幹部に、越ヶ谷の貴田実、蒲生の中野文香、大沢の松沢藤次郎らが幹事に選ばれた。

 この会は成立上の経緯からみれば、当然政友会系であったはずである。にもかかわらず、会の実権が滝田、中村(恵)に移ってからは、郡北部の同じ政友派との対立から滝田が同村の今井晃(国民党)に接近し、中村が新方領耕地整理以来、武里村の原又右衛門(国民党)に近かったこともあって主義主張は必ずしも一貫していなかったようである。

 翌年十一月の衆議院選挙には、大正会は自由投票とすることを申し合わせた。会の趣旨が地方自治確立のための適正な人選にあったにもかかわらず、統一候補者の選定ができなかったのである。なお大正会の同盟組織である越ヶ谷町民同志会はこの時、国民党の長嶋隆二を推薦している。大正初期の越谷政界は多様化し、一定の方向を打ち出すことが出来なくなっていたのであった。

(渡辺隆喜稿)

大塚善兵衛(左端),中村悦蔵(後列右から三人目)