大正八年八月、出羽村や大袋村では「人情に厚く隣人相互の助け合いを深め村民自治の基礎を固くする」という趣旨の矯風規約を制定した。これは大字単位に各住民から署名をとったうえ、全村民が協力して風俗の改善運動をおこすものであった。この運動は、大正期の頃全国的に展開された民力涵養運動に応じたものであったが、出羽・大袋のほか、越谷各地でも実行に移されたものと思われる。
このような風俗改善運動は、既に日露戦争をきっかけに産業奨励や勤倹貯蓄の励行を呼びかけた「村ぐるみ運動」として全国的に展開されてきた。しかし第一次世界大戦による経済の好況で人々は浮華驕(ふかきよう)奢(しや)に流れ、精神の弛緩(ちかん)は、勤倹節約の風習を著(いちじる)しく損(そこな)う傾向にあった。そこで内務省では、大正六年頃からしばしば「民力涵養および貯蓄奨励に関する訓令」を発し、軽薄に流れる風俗の矯正をはかるよう各県に通達していた。
埼玉県でもこれに対処し、同七年郡長会議を召集し、風紀改善の施策を諮問(しもん)した。この答申では(一)冠婚葬祭の儀式を改善すること、(一)娯楽の方法を改善すること、(一)休日を整理し、国定祝祭日を娯楽の日と定めること、(一)集会の時間を守ること、(一)敬神崇祖を本位とする矯正会を設置すること、(一)勤倹貯蓄組合を設置すること、となっている。
かくて埼玉県では、同七年十二月、風俗改善に関する告諭(こくゆ)を発し実行委員は各区長としたうえ、県下各町村に風俗改善申合規約を定め、冠婚葬祭における費用節約や時間の励行等を規制した。
ついで翌八年三月、内務省はさらに「戦後民力涵養に関する件」の訓令を発し、大々的にこの運動を全国に展開したので埼玉県でもこれに基づく規制を制定した。
この民力涵養運動は、政府や府県が一方的に上から指導監督するというものではなく、町村住民の共同体意識を下からもり上げる運動であった。したがってこの実行推進者は町村内の有力者をすべて参加させ、村ぐるみの運動をおこすところに特徴があった。
出羽村の矯風規約では、各種会合の時間厳守、組合内における相互援助の徹底、従来の風習の矯正と改善すべき事項等を詳細に規制し、この規則に違反した場合には「村八分」とするなどの強制処分をも規定している。
また冠婚葬祭などにおいて制限外のことを行う場合は、実行委員の意見をつけて村長に伺い、その承認を得る必要があった。この場合は、村長の査定で矯正料を五円以上百円以下の範囲でとり、この金を村の基本財産である蓄積金に寄附することが義務づけられていた。また村民は慶弔その他で無駄をはぶいた経費の一部も村の基本金に寄附することになっていた。
こうした矯風運動もその後の大不況で、それどころではなくなったというのが現実であろう。
(吉本富男稿)