関東大震災

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 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分、関東一府六県に未曾有の惨害をもたらした関東大震災が突発した。震源地は相模湾北西部の海底といわれ、震度七・九~八・二の強震で、余震はその後数日間継起し、安政二年以来の大地震となった。最激震地域は、京浜・三浦半島・湘南・房総南部で、各地に地割れ、海岸隆起(りうき)がみられ、これに隣接する県内の古利根川、元荒川、庄内古川、荒川流域の県東南部地帯にも大きな被害が生じた。県内の被害は京浜地域ほど激(はげ)しくなかったが、それでも家屋の全半壊戸数は、七万三七一九戸、死者二一七人、負傷者五一七名を数えた。

 市域で、住家五〇戸以上全壊の被害を出したのは、出羽村が一五一戸(全戸数四四四戸)、桜井村六八戸(四〇三)、大相模村六一戸(五一四)で、その外、大袋、増林、荻島、大沢、越ヶ谷の各町村に被害がみられ、住家非住家全半壊戸数一三〇九戸、死傷者数八〇名に達した。なかでも出羽村はもっとも大きな被害を受け、全半壊戸数は三六五戸、倒壊棟数四五七、死者八名、重傷者二三名と致命的打撃を受けた。このため村では直ちに負傷者の看護、食糧の焚出しを行うなど、活発な救護活動を開始した。しかし、なお大小の余震が継起したため、家屋の倒壊を避けて屋外で南天に帝都の炎焼を眺めつつ不安な一夜を過ごすほどであった。

 明けて二日には、朝鮮人襲来の虚報が乱れ飛ぶ中で、未明より京浜方面からの罹災避難民が縁者を頼って殺到し、なかには一五名も寄寓させている家もあった。この時期は米の端境(はざかい)期に当っていたため、たちまち食糧に不足を来し、出羽村では急拠石油発動機を借入れて玄米の精白を行ったり、村会を召集して罹災救助資金八六〇円余の支出を決議し、白米十七石五斗五合、味噌一四五貫目を購入して被災者に配給した。

 一方県では、臨時震災救護部を設置し、広く県下の篤志家に義捐(ぎえん)金を募(つの)って、死者十五円、負傷者八円、家屋全壊二十円、半壊十円を支給、あわせて皇室内帑金六万五五一九円を罹災町村に配分した。出羽村では小屋掛材料金五九二円、白米二四石四斗余、味噌三二六貫を支給され、ようやく雨露をしのぎ、食糧難から免(まぬが)れたのであった。

 この震災禍の復旧のために県では県税の減免や徴収猶予を指令、桜井村では震災復興貯蓄組合を結成し、大正十七年までの五年間に冗費を節約して四万円の貯蓄を計画した。

 また出羽村では米穀検査の際、従前の奨励米に加えて罹災農民に俵装料を給与する小作協定を結び被災者救済を行なっていた。

(大村進稿)

大震災の惨状(粕壁町)