越ヶ谷順正会の成立

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 越谷市役所構内に、当時の厚生大臣林譲治書になる「相扶共済」の碑が建てられている。

 この碑文の中で、国民健康保険発祥(はつしよう)の地なりと讃えられているのは、相互扶助を目的として成立した越ヶ谷順成会を指したものである。

 順正会の創立過程、つまり昭和の初期は全国的な経済不況が続きとくに昭和六年は農産物価格も最低の値を示していた。

 当時、人口七八〇〇人の越ヶ谷町では、独自に越ヶ谷実科女子校の県立移管を強行したことも原因で、不況の上に町税は他町村にくらべ過重であったという。

 したがって自(おのづか)ら滞納者も多かったので、越ヶ谷町民はこれに対処し、昭和十年一月に納税組合を結成した。これは滞納一掃に大きな役割りを果たすものであった。

 その後納税組合員は至誠会という無尽会を設立し、ここで得られた流動資金を利用し、困窮者の救済を目的とした医療共済を計画した。滞納の原因が疾病によるところが多かったからである。これが順正会の発端であった。

 この計画にもとづき至誠会の役員は、町有の診療所を共済医療機関にあてるため、埼玉県に働きかけるとともに、地元高橋医師の協力を求めた。同医師は日本医師会の諒解を求め、さらに地元医師会の援助を願った。

 かくて昭和十年四月、町有診療所の建物を譲りうけることになりこの建物を改造し、かつ医療器具等の整備を実施した。

 ここで、納税組合を母体としての順正会の仮役員を選出し、その事業計画書と目論見書を県に提出して、正式な認可をうけようとした。

 ところが法人組織になっていないこと、資金が不安定なことを理由に認可は見送られた。そこでとりあえず同十年六月個人開業の形で村松医師(地元開業医)に診療を依頼し、また資金調達の方法として会費徴収を計画した。だが警察では会員の募集は治安警察法にふれるという理由で反対したため順正会の活動は行きずまってしまった。

 その頃、こうした順正会の目的と方法が、たまたま昭和八年から内務省で検討中の、農山漁村救済方策である国民保健組合の要綱案と似ていることが内務省で知るところとなり、内務省の尽力で、ついに昭和十年十二月、発起人九一名、世帯人員四八九名で正式な発会式を越谷教会で行うことができた。

 その後医師会との交渉の結果、昭和十一年四月、順正会は「越ヶ谷順正会」と正式に称され、その活動も順調であった。

 かくて昭和十一年十一月、大蔵次官一行の越ヶ谷順正会の視察が行われ、これがもとで昭和十三年三月国民健康保険法が成立することになる。

 越ヶ谷順正会は、この年九月一日に認可され「越ヶ谷順正会国民健康保険組合」と称された。

(木村信次稿)

市役所構内にある「相扶共済」の碑