昭和十二年八月、政府は日中事変の戦局拡大に対処するため、国民精神総動員要項を決定した。
この運動は単なる教化宣伝による精神運動でなく、国民が各々の分野において国家総動員体制に協力し、これを実践することに意義があると強調された。このため府県では、地方長官が中心となる官民合同の地方実行委員会が組織され、市町村では市町村長が中心となって各種団体を総合的に総動員する体制がとられた。このなかには、部落会、町内会、各会社等も含まれており、各家庭や職場の隅々まで企画された実施計画の実行を浸透させるよう配慮されていた。
埼玉県の実施目標は、尽忠報国・挙国一致・堅忍持久の三スローガンのもとに、実践事項を、一、日本精神の発場、二、社会風潮の一新、三、銃後の後援の強化持続、四、非常時経済政策への協力の四項目とし、さらに具体的実践細目として生活刷新、享楽節制、出征軍人家族慰問・勤労奉仕、献金献品、国債応募、冗費節約、貯蓄奨励、廃品蒐集利用……などが示された。
越谷市域各町村でも国策に基づいて直ちに精神運動が開始された。例えば出羽村では愛国婦人会・国防婦人会・青年団など各種団体が総動員され、物資の愛護節約・勤倹貯蓄・生活改善などが強調され、さらに銃後後援強化週間を設けて武運長久の神社祈願、戦没軍人の墓参慰霊、出征軍人家族慰問、勤労奉仕などが励行された。また、戦費調達のため、各種団体・学校などに貯蓄組合が組織され、貯蓄奨励も行われた。とくに桜井村では紀元節を中心として日本精神発揚週間を設けて本運動をもりあげたりしている。出征軍人留守家族への勤労奉仕は、実践項目の中でもとくに重要視された点であり、増林村では農事実行組合を単位として奉仕班を組織してこれに当った。
昭和十四年四月、内閣直轄の国民精神総動員委員会が設置され、さらにこの運動の強力化が図られた。そして実施要項としての物資の活用・消費の節約・貯蓄の励行・勤蛍の増進・銃後後援の充実などが強調された。とくに、同年九月一日を最初として、毎月一日を興亜奉公日として運動をもりあげ、また昭和十五年を紀元二千六百年とし、奉祝式賀を十一月十日に挙行して大々的にこの運動をもりあげようとしていた。なおこの運動は、昭和十五年七月、第二次近衛内閣の成立によって大政翼賛運動に切替えられた。
(吉本富男稿)
