「八月廿七日(金)一、堆肥(たいひ)用青草刈勤労奉仕の件 昨日迄ノ処ノ成績ハ一万九千貫ニナリ、本日、三千三百貫、計二万三千貫アリ。残ル処二千貫ナレバ、明日半日ノ勤労ニテ充分ナルベシ。大相模分ト増林分トニ分ケ、各農会ヨリ領収証ヲ受取ルコト。」
これは、昭和十八年の越ヶ谷高等女学校の職員会議録の一節である。当時すでに戦争の影は学校にも深く入りこんでおり戦時体制のもと勤労協会令によって生徒は夏休み中も青草の刈あつめを行っていたが、続いて、九月二日には早くも第二次の動員令が出された。「――今回三万貫追加ノ通牒(つうちよう)アリ。今後食料問題ノ緊迫ニ伴ヒ、学徒ノ勤労動員ハ益々(ますます)、御手伝ノ域ヲ離レテ本腰ヲ入ルベキ時期トナリタリ(九月二日)」簡略な言葉の中にも、悪化して行く戦時情勢が反映されている。この青草刈では、目標を突破する四万貫の成果を上げている。
勤労奉仕のほかに、「食料・物資の不足」「救護訓練」「防空訓練」「退避壕(たいひごう)作戦」等々に関する件が随所に現われていて、職員会議が教育以外の事項に多大の時間を費(ついや)さねばならなかった状態をうかがうことができる。
「――(学資節約のため)下駄ヲ本体トス。靴ニテモ下駄ニテモ有合セノモノヲ使用シ、物資ヲ愛護節約スルコト(九月九日)」「空襲時ノ生徒登校ノ際ノ処置、突如空襲警報ナラバ(自宅まで)五分以内ノモノハ帰セ。窓ヲ取リハズス等適宜実施セヨ(十月七日)」「来ル十二月(養豚を)屠殺シ、生徒ノ副菜トスルコト。副菜ハ公平ニ生徒ニ行キワタル様、係ニテ指導スルコト(十二月二日)」。
また、男子にくらべ国家意識、時局認識が「著シク低調ナリ」とされた女生徒のため、授業は「時局ト結ンデ」行われ、和漢朗詠集の暗誦が勧められたり、「明治天皇ノ御製中四十首ヲ選ビ一週一首宛掲示」するなどの処置もとられた。
この年度の卒業式は、昭和十九年三月二十七日に行われた。式後、卒業生九十三名のうち二十四名の女子挺身隊の壮行式が挙行された。これは「農業、軍需工場ノ下請ヲナス家庭」以外の卒業生が、大宮航空、中島飛行機、川ロディーゼルの三工場に動員されたためであった。彼女らにとって苦しい青春は卒業後も続いたのである。