学校工場

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 昭和十九年七月二十三日、越ヶ谷高等女学校の三、四年生二百数十名は、野村製靴西新井工場(現在の東京都足立区興野町スタンダード製靴)に出かけて製靴作業の実習を受けた。いわゆる学徒動員である。

 学生、生徒の勤労動員は、昭和十三年以降、主に食糧増産などの目的で次第に拡大されてきた。昭和十六年には軍事工業への動員が開始され、その後戦局の悪化に伴って学徒はもっぱら不足気味の国内労働力の供給源と考えられるようになり、昭和十八年の学徒出陣とともに学徒動員も飛躍的に強化された。

 越ヶ谷高女でも昭和十七年から連年、農繁期の農村託児や炊事、堆肥用青草刈り等の勤労奉仕が行われたが、それはまだ日常の教育活動を破壊するほどのものではなかった。しかしついに昭和十九年、越ヶ谷高女は陸軍被服厰の編上長靴(軍靴)の工場となり、野村製靴での実習が行われたのであった。三週間ほどの実習ののち、学校工場は八月二十一日から作業を開始した。二日後には、正式に「学徒動員令」が公布され、全国の中学生以上の生徒は、すべて日常的に工場へ配置する方針が確定し、学校教育は事実上停止された。

 越ヶ谷高女では、校舎(現在の越高の木造校舎は当時の姿を残している――写真)の大半が工場化され、学習机にかわって各種機械が教室を占領した。作業は部厚い牛皮をカッターで型抜きすることに始まり、軍靴製造の全工程に及ぶものであった。作業自体はそれほど辛いものではなかったが、常に被服厰から派遣された将校の監視のもとで日曜日も休みなく続けられた。しかも昭和二十年に入ると戦局は全く不利となり物質不足から牛皮は、いつの間にか豚皮に代り、ついに鮫皮にまで落ちてしまった。その鮫皮はカッターも歯がたたないほど堅いシロモノであったという。同年八月には「作業中空襲をうけ、作業台の下に夢中で腹ばいになり、無事を祈ったこともあり、校舎のまわりに作られた防空壕にかけこんで息をころしていたこともしばしば」――加藤美佐世さんの動員学徒の思い出(越高三十五周年誌)――という悪化した事態になった。

 そして八月十五日敗戦。学校工場動員は解除されたが、生徒と教師たちはしばらくポカンとした虚脱状態に陥った。彼らの作った軍靴はほとんど搬出されることもなく校舎に山積みされていた。やがて「米軍が機械や物質の没収に来る」という噂が流れ、生徒達は学校工場の整理に追われるようになった。工場関係の資材は付近の農家に移され、教室にはもとの通り机が置かれた。皆が最も恐れていた学校の接収は結局行われなかった。

 加藤さんは「自分の学生時代を思い出すたびに、いつまでも平和であれと願わずに居られません」と、その思い出を結んでいる。

(谷沢孝稿)

昭和33年頃の越ヶ谷高等学校