終戦直後の越谷(昭和五十四年八月十五日号)

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 太平洋戦終結からすでに三十四年を経過した現在、戦中戦後の生活を身をもって経験した人でも、当時の細部にわたる状況を記憶に残している人は少なくなりつつある。ことに戦後生まれの人びとは、平和の持続とともに経済の成長に恵まれ、戦中戦後の混乱した世相を事実として想像することもできなくなっている。そこで終戦直後の越谷を今一度ふり返ってみるのもそれなりに意味あることと思われるので、当時の新聞の記事からその一端をうかがってみることにしよう。

 その頃日本の工業は、ほとんどが軍需生産に総力をあげていたため、戦後にわかに平和産業に切り替わることは工場設備などの関係でむずかしかったし、そのうえ資材の欠乏から工場操業はしばらく開店休業の状態が続いた。このため復員軍人をはじめ非農家の人びとは、これといった職業もないままその日の糧を求めて街をさまようほかなかった。

 こうした昭和二十二年一月の埼玉新聞では、〝求職も求人もない埼葛三万の失業者闇(やみ)に転向〟との見出しで、「職のない人びとの多くは新興職業と称された闇屋をはじめた」と報じている。闇屋とは経済統制の法をくぐって食料や日用品その他の物資をひそかに売買する職業である。そして同月の新聞には、〝闇屋さんなら家が建つ、東武に増えたバラック〟との見出しで、「家を建てるのはいづれも闇屋さん、その建築費は高騰して一坪あたり五、六千円、庶民にとっては高嶺の花である」といっている。しかしせっかく家を建ててこれを板摒で囲っても、燃料が極度に欠乏していた頃なので、〝一晩で消える板摒〟との見出しにあるように、たちまちこわされて持ち去られることもあった。

 さらに乏しい配給統制のもと深刻な食料難に苦しむ人びとは、高い闇の食料を買い求めたり、竹の子生活と称されたように、従来所持した衣類や家具その他の品物を食料と交換して飢(う)えをしのいだが、直接農家を訪れて食料を手に入れることも盛んに行われた。ことにジャガイモの収穫期にあたる六月に入ると連日、〝東武沿線に芋の買出しが殺倒〟、〝畑一面が闇市場〟という有様を呈した。

 これに対し食管法違反のかどで警察の取り締まりがきびしかったが、その一端を二十二年六月十九日付の新聞記事でみてみよう。すなわち、〝闇の買出殺倒、越ヶ谷署遂に武装隊を出動〟との見出しで、「越ヶ谷署ではここ数日来めっきり増加したじゃがいも買出しに、十七日午前八時から武装警官を出動させ、東武沿線越ヶ谷・大沢・蒲生の各駅で主食一斉取締りを行なった。電車のつく度にそれと知った約三千の買出部隊は大慌て、中にはすごすご帰るものもいたが、武里・大袋方面に方向転換するものなどで駅は大混雑を呈した。午後二時までに越ヶ谷でじゃがいも六十三貫八百目と、日光方面からの持ち込炭十七俵を押収した」とあり、このほか闇屋の横行や買い出し部隊の記事が連日新聞をにぎわしていた。

 またその頃戦災孤児を含む物乞いや、食料をねらう泥棒が日常珍しくなかったが、同二十四年になると、供米旋風などで農村も不景気が深刻になり、農家からのもらい物も少なくなったことから、常時数十人いた越ヶ谷の〝乞食も姿消す〟状態になった。ところが二十五年になるといずこも同じ不景気で、「東武にまた乞食が舞い戻ってきた。しかもサツマイモでも出せと居直る者まで出る始末」と乞食の強引さを報じている。またなかには〝二人組がおコモさん(乞食)をゆする〟とし、逆に物乞いから食料や金銭をゆすりとる者まで現れる始末であった。

 今日の世情と比較すると隔世の感がないではない。それでもこうしたなかで、いやこうした世であっただけに人びとは、生きる喜びや生きる幸せ、あるいは生きる尊さをより強く感じとっていたのである。

(本間清利稿)

昭和23年,蒲生駅の買い出し部隊