メーデーと越谷

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 例年五月一日はメーデーと称され、世界各国で労働者の祭典がくり広げられる。この日、西洋では古くから春の祭りといい、花の冠をかぶらせた「五月の女王」を仕立て、一日中遊戯などをして楽しむ風習があった。しかしこれとは別に、明治十九年(一八八六)、ちょうどこの日アメリカの労働者が八時間労働制を要求して一大示威運動を展開させたが、同二十二年第二インターナショナルの創立大会でこの日をメーデーの日とすることが決定され、翌二十三年から世界各地で挙行されるようになった。これがメーデーの始まりである。

 我が国では、大正九年はじめてのメーデーが上野公園で挙行されたが、昭和十三年戦時内閣によるきびしい規制により禁止された。次いで戦後の二十一年からその復活をみたが、労働運動の昻揚とともに盛大な行事に発展し、特に二十七年の対日講和条約が発効した直後の東京メーデーでは、デモ隊が皇居前で警官隊と衝突、記録に残る騒擾事件に発展したのはまだ人びとの記憶に新しい。

 ところで越谷地区ではじめてメーデーが行われたのは昭和三十七年のことであった。この間の経過をみると、まず昭和三十二年越谷町に居住する勤労者によって、勤労者団体協議会が結成された。当時この協議会の主な参加メンバーは、東武鉄道職員をはじめ、東京電力越谷営業所、越ヶ谷郵便局、越谷紡績、越谷小・中学校教員を中心とした勤労者で、八〇〇名の組織であった。会の目的は「勤労者の親睦と交流を図り社会的地位の向上、及び市政の民主化に努力することにあった。その活動は地区労働組合協議会的な側面もあって組合運動の相互協力が主体に置かれたが、同時にレクリエーション活動や学習会、さては地元商店で物を買う運動など幅広い活動が展開された。

 次いで同三十六年十月、機は熟して越谷に越谷地区労働組合協議会が結成されるに及び、勤労者団体協議会は発展的な解消を遂げた。当時の地区労加盟組合は、東武労組越谷バス分会、同越谷駅分会、全逓越谷分会、越谷紡績労組、田中電機労組、岡部労組、チヨダシューズ労組及び同年三月に結成された越谷市職員労働組合の八単産であり、組合員一七〇〇名で構成された。

 そして翌三十七年越谷地区の第一回メーデーが一五〇〇名の参加者のもとに北越谷駅前広場で挙行された。祭典後一同は市内行進を行ったが、はじめて市内を行進するメーデーの行列に街の人びとは目をみはった。この中で「越谷も変ったものだ。新しい時代に入ったんだね」などの声も聞かれたという。

 古くから農業を基盤としてきた農村越谷、また日光街道の宿場から早くより在郷を一団とした商圏を形成してきた越谷町の人びとにとって、労働者を中心としたメーデー行事は全くま新しい光景であったにちがいない。また、それまでは越谷とは全く別な世界と思われた大都会の映像が越谷にも現実となって表れたとの驚きも多分にあったにちがいない。

 かくて農村越谷に新たな工場が進出するにつれ、三十七年には関東製鉄、東武ピーエス、十字屋テーラー、翌三十八年には広田ライター、三十九年には越谷乗用車と電通越谷分会、四十年には共栄クリーニングと東武越谷分会が越谷地区労に加盟、その組織は拡大の一途をたどり、メーデーもより盛大に行われるようになった。

 同時にこの頃から転入人口が激増しはじめて生活様式も一変し、さながら東京都の外延的都市とみなされるようになった。

 現在越谷地域は工業団地造成の規制をうたった首都圏整備計画法の適用内にあって大工場の進出が制約されているため、地区労組織の拡大は中小企業を中心としているが、それでも多方面にわたる活発な活動が展開されている。

(本間清利稿)

越谷地区メーデー風景