昭和四十二年に国道四号線のバイパスとして建設された、いわゆる草加バイパスは、その開通によって、越谷市出羽地区、荻島地区等の市西部の水田地域に、ふたつの大きな影響を及ぼした。
そのひとつは、それまで国道四号線と東武線を軸として、市南部に伸展してきた都市化が、バイパスを利用して、市西部に拡がりだしたことである。
都市化の方向としては、とくに工場をはじめ倉庫、材料置場、営業所等の立地がめだち、業務地域形成を特徴とするものであった。
たとえば、昭和四十三年度に越谷市に立地した一八工場中の一六工場、一三営業所中の七営業所、八材料置場中の五置場が、いずれもバイパスに縦断された出羽地区で占められていたほどである。
もうひとつは、バイパス周辺の農家に与えた悪影響である。具体的には、バイパス工事そのものに伴う東側耕地での水圧低下と、都市化のための水田埋立の際に生じた、用排水系統の遮断とがもたらした水利条件の悪化がまずとり上げられる。
その結果、バイパス東側沿いの水田では、約一〇〇メートルの幅で、バーチカルポンプによる揚水灌漑の必要が生じている。
さらに耕地の一部がバイパスの反対側になってしまったため、通作上たいへんな不便と危険にさらされるようになった。盛土、ガードレールにさえぎられて、農道の多くは使用不可能となり、遠廻りしなければ横断できなくなったからである。
しかも横断地点がかぎられていただけでなく、信号機の設置もすくなかった。
このため、速度ののろい耕うん機で、そこを横切ることは、反対側耕地への心理的距離を一層遠くするものであった。
ところで、このような不便と危険とを解消するための西側農家間での耕地の交換分合は、地価水準や希望農家数の関係で成立しにくく、結局はバイパス反対側の耕地を所有する農家の多くは、その耕地を売却して経営規模を縮少(ごく一部は代替地を取得して現状維持)し、兼業農家への途をたどらざるを得なかったようである。
一般に交通条件のいちぢるしい改善や地価水準の上昇は、資本集約的、土地節約的な近郊農業の成立を可能にするものである。
しかし、これまでのべたように、四号国道バイパスの建設は出羽、荻島地区等の農民に対して、低湿な水田単作型の農業地域なるがゆえに「都市化の進展と農業の後退」という累積のメカニズムを、一方的にもたらしたにすぎなかった。
(新井鎮久稿)
(付記)現在の草加バイパスは国道四号線に切り替えられ東京都足立区保木間から越谷市間久里間の旧四号国道は県道足立越谷線と称されている。
