越谷周辺の武士たち

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 京都政権による律令(りつりよう)制が荘園(しようえん)の一般化で崩れ去ると、地方では力の強い農民が公地公民の原則を破り、自分たちが開発した土地、あるいは力をもって得た土地、そしてそこに働く人びとを私有するようになった。かれらは、こうして私有した土地と住民を他人に奪われないよう、武装してこれを守った。これが武士の発生である。

 これら武士は同族間で連携を保ちながら各地を支配したが、それぞれ支配した土地の名を自らの名の上に冠してその土地と人民の領有を主張し、これを誇示した。これが平氏・源氏・藤原氏・橘氏などといった姓氏を用いる貴族のほか、一般人が苗字を用いるようになった起(お)こりである。武蔵国では当時桓武平氏の流れを汲むと称する村山党・児玉党といった七つの武士団が台頭した。これを通称武蔵七党と呼んでいる。

 このうち越谷地域には、上総権介常将をその祖と称す野与(のよ)党が勢力を張っていた。すなわち、『千葉大系図』や『武蔵七党系図』によると、野与党の武士として古志賀谷(越谷市)二郎為基その子に太郎秋近・二郎信秋・四郎行勝の名がみられる。また同族に大相模(越谷市)次郎能高、その子に二郎兵衛尉能忠、八条(八潮市)に五郎光平、渋江(岩槻市)に四郎有光、箕勾(同上)に小六郎能基、柏崎(同上)に次郎時光、鬼窪(白岡町)に小四郎行親、栢間(菖蒲町)に小六郎季平、黒浜(蓮田市)に五郎兵衛信秀などがいたことが知れる。

 これら武士は互いに結合していざというときは助け合ったが、より強い武士に主従の誓いを立て、身の安全とその保護を求めた。そしてその頂点に立ったのが源頼朝であったが、頼朝はこれら武士団を動員して平氏をほろぼし鎌倉に武家の政権(幕府)を樹立した。なお頼朝は関東で挙兵して間のない寿永三年(一一八四)一月、崎西(きさい)(現南埼玉郡)・足立両郡の地のうち、八条郷その他を伊勢の皇太神宮に寄進したが、これを大河土御厨(みくりや)という。この御厨領の地頭には、当時大河土(松伏町)の住人大河土太郎広行や、渋江五郎光衡が任ぜられていた。

 その後承久三年(一二二一)五月、執権北条義時が鎌倉幕府に抵抗を示した朝廷軍を宇治で破り、後鳥羽上皇を隠岐(おき)に、順徳上皇を佐渡に流し、その他数多くの公卿などを処罰した。これを承久の乱という。このときは武蔵武士が朝廷方と幕府方に分かれて激しく争ったが、この戦いに埼葛地域から従軍した武士には、宇治の合戦で負傷した魚沼(松伏町)の工藤三郎、同合戦で戦死した大河戸(同上)の小四郎、同合戦で戦功のあった太田(鷲宮町)の五郎、同じくこの戦いで戦死した太田の六郎、同合戦で戦功のあった清久(久喜町)の左衛門尉、同合戦で負傷した行田(行田市)の兵衛尉などの名がみられる。

 次いで康元元年(一二五六)六月、鎌倉幕府は奥の大道強盗蜂起にその鎮圧方を二四人の武士に命じているが、このなかに渋江太郎兵衛尉(岩槻市)、鳩井兵衛尉跡(鳩ヶ谷市)、清右衛門二郎(久喜市)、矢古宇右衛門次郎(草加・川口市)、伊古宇又二郎(足立区伊興)などの名がみられる。このほか建武の中興に南朝方に味方した春日部判官重行(春日部市)や、小田原北条氏に仕えた小曾川小五郎(越谷市)、新方庄の領主新方賢真(越谷市)、現北葛飾郡庄和町周辺に本拠をもったとみられる下河辺氏などが確かめられる。

 しかし、古志賀谷氏や大相模氏は『野与党系図』などにみられるものの、その後の動向は記録上からは全く不明である。このなかで大相模氏は越谷市東方(大成町)の中村氏がその後裔といわれ、この屋敷地からは文和二年(一三五二)や貞治六年(一三六七)在銘のものをはじめ、古い年代の板碑が数多く発見されている。また御殿町に建長元年(一二四九)在銘の板碑(市指定文化財)が残されているが、この板碑は、あるいは当時この地域を領有していた古志賀谷氏が建立したものであるかもしれない。

御殿町にある建長元年の板碑